植松寿樹
植松 寿樹 | |
---|---|
誕生 |
1890年2月16日 東京府東京市四谷区舟町(現・東京都新宿区舟町) |
死没 | 1964年3月26日(74歳没) |
職業 | 歌人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学部理財科卒業 |
ジャンル | 短歌 |
文学活動 | 自然主義文学 |
デビュー作 | 『庭燎』 |
所属 | 沃野短歌会 |
影響を受けたもの
| |
植松 寿樹(うえまつ ひさき、1890年(明治23年)2月16日 [1]- 1964年(昭和39年)3月26日[2])は、大正・昭和期の歌人。名は壽樹とも書く[1]。歌誌『沃野』を創刊・主宰した。
経歴
[編集]東京市四谷区舟町(現・東京都新宿区舟町)生まれ[1][2][3]。中学時代、電報新聞(現・毎日新聞)の窪田空穂選歌欄に投稿したのをきっかけに師事し、1905年窪田空穂主宰の十月会に入会[1][2]。
1914年(大正3年)空穂の『国民文学』立ち上げに参加[1][2]。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科卒業[1][2]、大阪の加島銀行に入社[1][2]。この時期に川田順、木下利玄らと親交を深め[1][2]、「五日会」を興す[1]。
1919年に銀行を退職して、大倉商事大阪支店に入社[1][2]。1921年、大倉商事を退職[1][2]。朝鮮、満洲を旅行した末、1923年(大正12年)に旧制芝中学校国語科教諭に着任[1][2]。新制芝中学校・高等学校となっても勤務を続け、没するまで40年以上を過ごす[1]。生徒とともによく登山し、山岳詠を多く残した。
太平洋戦争後の1946年(昭和21年)に『国民文学』から独立して沃野社を結成[1]、『沃野』を創刊・主宰した[1][2]。1949年、半田良平賞を設定した[1][2]。同会には富小路禎子、山本かね子、三枝昂之、三枝浩樹らが参加したほか、沃野賞なども主催した。没年まで同会の主宰として後進の指導にあたるほか、『万葉集』や橘曙覧に関する著書も手がけた。門人に中島耕一などがいる。
1964年、土肥温泉で心臓麻痺のため急逝[1][2]。墓所は九品仏浄真寺[1]。日本近代文学館に「植松寿樹文庫」がある。
著書
[編集]歌集
[編集]- 『光化門』(紅玉堂書店、1927年)
- 『枯山水』(砂子屋書房、1939年)
- 『稗畑』(砂子屋書房、1940年)
- 『庭燎』(砂子屋書房、1940年)
- 『渦若葉』(沃野社、1950年)
- 『白玉の木』(新星書房、1964年)
- 『植松壽樹全歌集』(新星書房、1976年)
その他
[編集]- 『橘曙覽歌集』(紅玉堂書店、1926年)
- 『江戸秀歌』(春秋社、1959年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『研究資料現代日本文学:短歌』 明治書院 1981年