クリトモ一休・三休
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(栗友一休・三休から転送)
クリトモ 一休・三休(くりとも いっきゅう・さんきゅう)は、日本の漫才コンビ。後身の第 一球・三球(だい いっきゅう・さんきゅう)についてもこの項で記述する。リーガル千太・万吉門下。
コンビ来歴
[編集]1958年4月、リーガル万吉門下の一休と三休がコンビ結成。亭号「クリトモ」は寄席『栗友亭』にちなむ。
師匠譲りの上品でテンポのいい芸風を身につけ、若手のホープとして期待された。1960年10月の第8回NHK漫才コンクール、1961年3月の第9回NHK漫才コンクールでともに3位となった[1]。1962年3月、第10回NHK漫才コンクールで優勝。一躍実力派として認められ、師匠からも近々「リーガル」の亭号を許される話が出た[1]。
東京漫才の一角をになう若手として活躍し始めた矢先の1962年5月、一休が三河島事故に巻き込まれ急死。三休は漫談や司会などを行っていたが、1962年末、大空平路の斡旋で、畦元直彦(2代目クリトモ一休→第一球)とコンビを結成。のち、「第一球・三球」と改名する。
第一球・三球は奇抜な味わいのある漫才で注目を集め、1964年3月、第12回NHK漫才コンクールに出場し、『発明発見物語』というネタで2位。一球曰く自信作だったとのこと[1]。コンビ仲も悪くなかったが、張り合いがなくなりつつあり、有耶無耶のうちに1964年頃コンビを解消することとなった[1]。
メンバー
[編集]- クリトモ 一休(くりとも いっきゅう、本名:内堀 欽司、1928年11月13日 - 1962年5月3日)
- クリトモ 三休(くりとも さんきゅう) → 第 三球(だい さんきゅう、本名:近馬 一正、1933年10月21日 -2023年5月17日)
- 第 一球(だい いっきゅう、本名:畦元 直彦、1932年1月1日 - )
- 満州国の旅順出身。父は獣医部将校。間もなく父の転勤で東京へ引っ越し、そこで育つ。旧制山水中学入学。親の転勤で京都に引越し自身も京都一中へ。1945年、終戦を迎え、父は失職。家庭の事情から祖父のいる鹿児島県南さつま市へと転居。加世田中学に進学するが、学制改革によって高校卒業。
- 卒業後、立教大学社会学部に合格し、上京。この頃からラジオ番組に出演。その後舞台芸術学院に入学。1953年、新宿セントラル劇場に入団し、コントや軽演劇に出演。浅草の喜劇、曾我廼家五一郎一座に入り、「曾我廼家 蝶太」の芸名をもらう。声優としても活躍したが、東京を離れる。縁を頼って、栃木県の劇団「らくりん座」に所属し、学校まわりをする。間もなく、セントラル時代の知人、須賀三郎の紹介で、相方を失ったばかりのクリトモ三休と出会う。意気投合する所があり、2代目コンビを組む。
- コンビ解消後は地方の司会や演劇の舞台出演などで活動を続けた。
出典
[編集]- ^ a b c d e 喜利彦山人 (2020年2月1日). “クリトモ一休・三休と第一球”. tokyomanzai0408.com. 2020年2月14日閲覧。
- ^ "春日三球・照代の三球さん死去 地下鉄漫才「地下鉄の電車はどこから入れたんでしょう」ブーム". 日刊スポーツNEWS. 日刊スポーツ新聞社. 18 June 2023. 2023年6月18日閲覧。