柏原孝章
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(柏原学而から転送)
柏原 孝章(かしわばら たかあき、天保6年4月9日(1835年5月6日) - 明治43年(1910年)11月5日)は、江戸時代後期から明治期の蘭方医、啓蒙家、洋学者。江戸幕府15代将軍徳川慶喜の侍医。もともとは学介と名のっていた。号は学而(がくじ)。字は子成。
経歴
[編集]- 1835年(天保6年) - 讃岐国潟元村に高松藩奥医師の柏原謙好・光子の三男として誕生。
- 1844年(弘化元年) - 小豆島の医師中桐文炳の養子となる。
- 1853年(嘉永6年)、1854年(安政元年)頃 - 妻の死とともに養家から柏原家に復籍。
- 1854年(安政元年) - 閏7月23日 (旧暦)、緒方洪庵の適塾に入塾。
- 1862年(文久2年) - 適塾の塾頭。8月、江戸にて石川桜所に入門。
- 1864年(元治元年) - 4月、徳川慶喜の侍医となる。
- 1869年(明治2年) - 2月21日 (旧暦)、駿府病院の二等御医師となる。
- 1871年(明治4年) - 自宅に医院を開業する。
- 1910年(明治43年) - 11月5日、死去。
著訳書
[編集]- 『祇布斯繃帯書』(ぎぶすほうたいのしょ)、1867年(慶応3年)
- 『流行牛病予防説』、1873年(明治6年)
- 『箋註格到蒙求』(せんちゅうかくちもうぎゅう)、『牛病新書』1874年(明治7年)
- 『耳科提綱』、1876年(明治9年)。『羅斯古化学新書』(ラスコーかがくしんしょ)、この年から翌年にかけて出版。
- 『病者須知』(びょうしゃしゅち)、1880年(明治13年)9月。
家族
[編集]- 父:柏原謙好 長崎でシーボルトから種痘を学び[1]、三男一女を儲けた。
- 母:光子
- 長兄:遜郷 家を継ぐ。
- 次兄:信富 松本氏を継ぐ。
- 子:柏原知格[2][3] 海軍主計大佐。静中野球部(現在の静岡高校野球部)の始祖[4]。
- 子:秋月致[2][3] 日本基督教会牧師。京城において25年間、また東京・福岡で伝道した[1]。
脚注
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 土屋重朗「柏原学而伝」『日本医事新報』第2484-2494号、日本医事新報社、1971-1972。
- 土屋重朗『静岡県の医史と医家伝』戸田書店、1973年。 - 第6章第7節に上記「柏原学而伝」が収録されている。
- 『明六雑誌』 中、山室信一・中野目徹校注、岩波書店〈岩波文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-00-331302-2。 - 396-397頁に略年譜が収録されている。
- 『明六雑誌』 下、山室信一・中野目徹校注、岩波書店〈岩波文庫〉、2009年8月。ISBN 978-4-00-331303-9。 - 『明六雑誌』第29号~第31号掲載の「教門論疑問」、第33号掲載の「日曜日の説」が収録されている。
外部リンク
[編集]- 柏原 孝章:作家別作品リスト - 青空文庫
- 『柏原学而』 - コトバンク