東郷実友
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 文化2年8月16日(1805年9月8日)? |
死没 | 慶応3年11月20日(1867年12月15日) |
改名 | 幼名:仲太郎 |
別名 | 通称:吉左衛門 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 薩摩藩 郡奉行見習、徒目附、郡奉行、高奉行、納戸奉行 |
氏族 | 東郷重弘次男・重友流東郷氏6代目当主 |
父母 | 父:東郷実愛、母:大河平順良の娘 |
兄弟 | 篠崎七左衛門の妻、大河平実次、柴山國貞の妻 |
妻 | 益子(堀与三左衛門の三女) |
子 | 実猗、娘、祐之進、小倉壮九郎、平八郎、実武 |
東郷 実友(とうごう さねとも)は、江戸時代後期の薩摩藩士。東郷平八郎の父。
宗旨は禅宗。父の実家の親族である篠崎七郎左衛門正心より水野流居合を学び、皆伝す。家格初め御小姓与。のち一代小番。
経歴
[編集]文化2年(1805年)8月16日?、東郷重弘の次男・重友を家祖とする東郷家6代目当主・東郷実愛の子として誕生。天保10年(1839年)、郡奉行見習になる。 嘉永4年、島津斉彬の藩主就任以来初の入国に御供する。なお、当時徒目附であった[1]。 弘化4年(1847年)、郡奉行になる。安政6年4月、島津斉彬が指宿で行った井戸の増設を記念する碑を指宿郷(現在の鹿児島県指宿市)の上山氏や郡奉行所の同僚とともに二月田温泉に建る。文久元年(1861年)12月、藩に指宿郷の防砂事業に関する上申書提出。
文久2年(1862年)、5男四郎左衛門を除く子息とともに薩英戦争に出陣。実友、山川郷(現在の指宿市山川町)の山川砲台に配置され、子息らは鹿児島城下藩主本営に詰める。元治元年(1864年)3月、高奉行になり一代小番に昇格。後年、納戸奉行になる。
慶応3年(1867年)6月11日、平八郎と四郎左衛門が分家する。慶応3年(1867年)11月20日、鹿児島城下で死去。
家族・親族
[編集]- 養祖父:東郷実昌
- 父:東郷実愛(東郷実昌の養嗣子、篠崎七郎左衛門正房の子)
- 母:大河平順良の娘
- 妻:益子(堀与三左衛門の三女)
- 兄弟:篠崎七左衛門の妻、大河平実次(大河平順喜の養子)、柴山國貞の妻
- 子女:五男一女
備考
[編集]実友は終始、方正勤直をもって聞こえた。また識見が有り、海外事情を注視して外国船の無礼を憤っていた。実友の詠んだ和歌に、「異国の船 くつかへせ 諸人の祈る 誠を知れよ神風」というのがあった。
「鹿児島城下絵図散歩」では、現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町に東郷吉左衛門宅地があった。広さは267坪。なお、「聖将東郷全傅」では東郷吉左衛門宅についての記述あり。記述は以下のとおり。
- 「四方竹垣を以って囲み、門は北側に、家屋は東西に延び、八畳三間、六畳四間、四畳二間、二畳二間、納戸、物置、臺所、土間等からなり、邸南北両隅には倉庫を建て、其の中央に厩及び下男室を設け、庭は北に偏り、松の木の側に氏神を祀った小祠を安置し、その西側に紅白二株の梅、手洗石を挟んで立っていた」
なお、東郷家の家屋は西南戦争で焼失したという。また、隣近所に伊東茂右衛門祐之が住んでいた。
脚注
[編集]- ^ 「島津斉彬公史料 第一巻」参照
参考文献
[編集]- 小笠原長生「聖将東郷全傳」
- 塩満郁夫、友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』 高城書房、2004年12月1日初版
- 「鹿児島県史料 島津斉彬公史料 第一巻」