コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

台東区立黒門小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台東区立黒門小学校
地図北緯35度42分25秒 東経139度46分16秒 / 北緯35.707056度 東経139.771028度 / 35.707056; 139.771028座標: 北緯35度42分25秒 東経139度46分16秒 / 北緯35.707056度 東経139.771028度 / 35.707056; 139.771028
過去の名称 東京市黒門尋常小学校
東京府東京市黒門国民学校
東京都黒門国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 台東区
設立年月日 1910年
創立記念日 5月7日
学校コード B113210600063 ウィキデータを編集
所在地 110-0005
東京都台東区上野1-16-20
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

台東区立黒門小学校(たいとうくりつ くろもんしょうがっこう)は、東京都台東区上野一丁目(黒門町)にある公立小学校

江戸時代、現在の上野公園一帯(約35万坪)には、徳川将軍家の祈祷・菩提寺として歴代将軍から厚い庇護を受けていた東叡山寛永寺が有った。歴代の住職は天皇の皇子が務めており、比叡山延暦寺の座主と日光山輪王寺門跡を兼ねていて、日本の宗教界の頂点に君臨し、寛永寺に居住していた。寛永寺の入り口の総門は黒門と呼ばれていたので、門に近い町の名前には元黒門、西黒門、東黒門等、黒門に因んだものが多く、学校が設立される時に地域に根付いた黒門という名称を校名として採用した。ちなみに黒門小学校のすぐ側に住んでいた落語界の大名人である桂文楽は黒門町の師匠と呼ばれていた。

概要

[編集]

明治43年5月7日創立。江戸時代から日本を代表する繁華街である上野の街をそっくり学区域に持つ小学校である。校舎は都内でも少なくなった関東大震災後の復興小学校(1930年竣工)を、現役の校舎として使用していて重厚な雰囲気を醸し出している。また建築当初からある地下の防空壕二宮金次郎像もそのまま残っている[注釈 1]

現存する震災復興校舎の中でも名建築として高く評価されている校舎を文化財・歴史的建造物として保存し、また現役の校舎として永く使い続ける為に東京芸大などの専門家が監修して耐震化を含めた改修工事を2014年(平成26年)から2019年(平成31年)3月までに実施。創建当時の優美な佇まいを取り戻した[1]

現校舎建築当初から1989年(平成元年)まで使っていた旧講堂には、戦前に御真影を安置していた奉安殿が残っていたが[注釈 2]、旧講堂を体育館として改修した際に消滅した。

黒門小学校の校長は、数校での校長経験、行政経験(東京都教育委員会や都内の教育委員会での管理職)、校長会や全国組織の各教科の研究会の役員などを経験してから就任するのが慣例となっている。特に道徳研究の全国組織の会長を経験した者が多く、昭和40年代には全国の先駆けとなる道徳授業を実践していた。また文部科学省等の研究指定校などを数多く経験している。
卒業生の殆どが私立・国立の有名中学に進学する為に、千代田区の番町小や中央区の泰明小などと共に都内を代表する公立小学校の名門として広く認知されていて、都内や近県からの区域外就学児が児童の半数以上を占めている。
[要出典]

上野にある小学校として、上野公園内にある文化施設との連携・協力も密にしており、地の利を生かした教育活動を実践している。

黒門小学校育ての会(PTA組織)を中心として、同窓会や地域との連携を行いながら黒門小学校の教育活動や児童の為に活動を積極的に行っている。

2023年(令和5年)1月 - 全教科 区研究協力校となる[2]

校歌

[編集]

作曲 山田耕筰  作詞 笹川臨風

1、御代の光と師の恵み
  うけて茂りし若緑
  上野の森の空高く
  我が学舎の誉れを揚げん
  善き子はやがて善き人と
  なるを忘るな怠るな

2、清く素直に明らけく
  家の風をも吹き起こし
  不忍に咲く蓮の花
  世の鑑とも賞で仰がれん
  善き子はやがて善き人と
  なるを忘るな怠るな

著名な出身者

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 防空壕は、入口が特殊な場所にあって施錠されており、普段はまったく人の出入りがないこともあり、中は昔の雰囲気がよく残っている。建設当時のものと思しき、壁を碍子一つで伝う裸電線に電灯、昭和30年代の生徒の手によると思しき落書きなどが残る。学校の正面玄関を入って左右に行くと、同じ1階であるにもかかわらず、廊下を進むのに不自然にも若干の階段を登らなければいけないのは、上げ底となった部分の下に防空壕があるからである。
  2. ^ 舞台の奥に大理石で囲まれ、複雑なレリーフが施された大きな木の引き戸があり、扉を開けた奥行き僅かなスペースが奉安殿として使われていた。戦後は、学校教育から国体思想が排除されたことに伴って奉安殿として使うことを止め、全面を緞帳で覆って存在を隠し、運動会の入退場門を収納するなどの大物用倉庫としてひっそりと使っていた。

出典

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]