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杉坊照算

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杉之坊照算から転送)

杉坊 照算(すぎのぼう しょうさん[1]、? - 天正13年〈1585年〉)は、安土桃山時代の人物。紀伊国根来寺の子院・杉坊の院主。津田小監物算長の次男で、兄に津田監物算正、弟に津田自由斎がいる[2][注釈 1]。院名の杉坊は、杉之坊[4]杉の坊[5][6]杉ノ坊[7]とも書かれる。

略歴

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杉坊明算の跡を継ぎ、根来寺の有力子院・杉坊の院主となる[8][注釈 2]

天正5年(1577年)、織田信長が紀伊の雑賀衆を攻めた際、根来寺は杉坊(照算)が中心となって信長へと味方した(雑賀攻め[10]。同年2月、上洛した照算は信長に協力を申し出、現地の様子を伝えている[11]。織田軍の雑賀侵攻時、照算はその案内を務め[12]、3月には織田信張とともに和泉佐野城の守備を命じられた[13]。根来寺はこの後も信長に従い、紀伊・和泉・河内においてその勢力を維持した[14]

天正8年(1580年)、本願寺顕如が信長と講和し、大坂から紀伊雑賀の鷺森に移る[15]。同年4月、鷺森下向に尽力したとして、顕如から泉識坊・杉坊照算に対して礼が伝えられた[14]。同年6月、雑賀衆の土橋春継胤継と根来寺の泉識坊快厳・杉坊照算は、顕如を支持し、大坂に残る教如(顕如の子)に味方しないとする起請文を織田方へ提出している[16]

天正9年(1581年)に京都で行われた馬揃えには、他の根来寺衆らとともに杉坊(照算)も参加している[14]

天正10年(1582年)に信長が死去すると、根来寺は羽柴秀吉と対立した[17]。天正11年(1583年)、根来寺や粉河寺・雑賀衆などの「紀州一揆」が和泉へ攻め入り、岸和田城に在城する秀吉家臣・中村一氏と戦っているが、「紀州一揆」の大将の1人として杉坊(照算)の名があった(『中村一氏記』)[17]

天正13年(1585年)3月、羽柴秀吉の大軍が和泉にある根来・雑賀方の城を落城させ、紀伊へと攻め入る(紀州征伐[18]。3月23日、放火または自焼により、根来寺は一部の堂塔を残して焼け落ちた[19]。『津田家系譜』によると照算は、この天正13年(1585年)に討死したという[20]

脚注

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注釈

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  1. ^ 自由斎を照算と同一人物とする説があるが、自由斎は父・算長の命で砲術を広めるため諸国を巡ったとされており、杉坊の院主である照算とは同一としにくい[3]
  2. ^ 『津田家系譜』で明算は照算の叔父(父・算長の弟)とされるが、近年の研究では遊佐長教の弟といわれる[9]

出典

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  1. ^ 廣田 2022, p. 361.
  2. ^ 太田 2005, pp. 14, 17.
  3. ^ 太田 2005, pp. 12, 15.
  4. ^ 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 中世』和歌山県、1994年、593頁。全国書誌番号:94039163 
  5. ^ 奥野高広岩沢愿彦校注『信長公記』角川書店角川文庫〉、1969年、226頁。 
  6. ^ 谷口 2010, p. 242.
  7. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 797, 952.
  8. ^ 廣田 2022, p. 365.
  9. ^ 廣田 2022, pp. 362, 365.
  10. ^ 廣田 2022, p. 366.
  11. ^ 谷口 2010, p. 242; 廣田 2022, p. 366.
  12. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 983; 谷口 2010, p. 242; 廣田 2022, p. 366.
  13. ^ 谷口 2010, pp. 242–243; 廣田 2022, p. 366.
  14. ^ a b c 廣田 2022, p. 367.
  15. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 994; 廣田 2022, p. 367.
  16. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 998–999; 廣田 2022, p. 367.
  17. ^ a b 廣田 2022, p. 368.
  18. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 1025–1027; 廣田 2022, p. 368.
  19. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 1027; 廣田 2022, p. 368.
  20. ^ 太田 2005, p. 17; 廣田 2022, pp. 368–369.

参考文献

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関連項目

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