京都市立朱雀第四小学校
京都市立朱雀第四小学校 | |
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北緯35度00分51秒 東経135度44分02秒 / 北緯35.014056度 東経135.733944度座標: 北緯35度00分51秒 東経135度44分02秒 / 北緯35.014056度 東経135.733944度 | |
過去の名称 |
朱雀第四尋常小学校 朱雀第四国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 京都市 |
設立年月日 | 1929年(昭和4年)4月1日[1] |
共学・別学 | 男女共学 |
学校コード | B126210000439 |
所在地 | 〒604-8482 |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
京都市立朱雀第四小学校(きょうとしりつ すざくだいよんしょうがっこう[注釈 1])は、京都府京都市中京区西ノ京笠殿町にある公立小学校。
概要
[編集]これは、略称の「朱四校(しゅしこう)」と「学び舎」から作った「朱四舎」を「あかしや」と読んだことに由来する。 そのため、学校の行事や印刷物などに「あかしや」の語がついていたり、学校正門前にあった文具店が「あかしや文具店」の名称になっていたりした。
- 敷地内からは平安京の遺跡が発掘されている。
沿革
[編集]- 1929年(昭和4年)
- 1930年(昭和5年)4月1日 - 新校舎(現校地)に移転[3]
- 1934年(昭和9年)3月1日 - 通学区域変更。一部朱六校へ[1]。
- 1935年(昭和10年)6月 - 京都大水害により校舎が被害を受ける[4]。
- 1937年(昭和12年)1月8日 - 通学区域変更。一部朱八校へ[1]。
- 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により京都市立朱雀第四国民学校と改称[5]
- 1943年(昭和18年)3月27日 - 学校統合により朱雀第五学区の児童編入[3]。
- 1947年(昭和22年) - 学制改革により京都市立朱雀第四小学校となる[3][5]。
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校区
[編集]通学区域は、後述する「#朱雀第四学区」の範囲から西ノ京冷泉町の一部を除いた地域に、西ノ京三条坊町の全部と西ノ京西中合町・西ノ京東中合町・西ノ京下合町・西ノ京桑原町・壬生上大竹町、壬生西大竹町・壬生東大竹町の一部を加えたものである[注釈 2][6]。概ね、東は御前通及び下ノ森通、西は紙屋川及び西大路通、佐井西通、北は山陰本線、南は三条通及び蛸薬師通を限りとする。
市立中学校の通学区域は京都市立西ノ京中学校と京都市立朱雀中学校にまたがっている[6]。
交通アクセス
[編集]- 鉄道
- 路線バス
関係者
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朱雀第四学区
[編集]朱雀第四学区(すざくだいよんがっく[注釈 3])は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市中京区に位置する。朱雀第四小学校の通学区域を概ねの範囲とする、京都市の地域自治の単位となっている。
朱雀第四学区の名称の朱雀のもととなるのは明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、聚楽廻、西京村、壬生村が合併して成立した朱雀野村である。朱雀野村は大正7年(1918年)に西院村の一部と共に京都市下京区(当時)に編入され、編入された区域は下京第34学区となった。
下京第34学区は、昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京区・下京区から、左京区・中京区・東山区が分区されると、朱雀学区となり、中京区に属した[7]。
学区内には、明治37年(1904年)に朱雀野小(のちに朱雀第一小と改称)が創立し、大正元年(1912年)には朱雀野第二小(のちに朱雀第二小と改称)、大正10年(1921年)には松原小(のちに朱雀第三小と改称)、昭和4年(1929年)に朱雀第四小、昭和5年(1930年)に朱雀第五小、昭和7年(1932年)に朱雀第六小、昭和8年(1933年)に朱雀第七小、昭和12年(1937年)に朱雀第八小が創立された[2][注釈 4]。
昭和16年(1941年)に国民学校令の施行により学区の根拠が失われ[8](京都市の学区そのものは昭和17年(1942年)に廃止[9])、昭和16年6月に国民学校の通学区域を単位とする町内会連合会が発足[8][注釈 5]。朱雀第四国民学校の通学区域を単位として朱雀第四町内会連合会が設置され[10]、戦後のポツダム政令[11]による解体ののち、住民自治の単位である現在の朱雀第四学区となった。
地理
[編集]朱雀第四学区は、北側が朱雀第二学区、東側が朱雀第六学区と朱雀第五学区、南側が朱雀第五学区、西側が朱雀第八学区と接する[12]。区域は、概ね東は下ノ森通(相合図子通)、北はJR山陰本線、西は紙屋川と西大路通、南は三条通であり、西ノ京を冠称する町の一部(ごく一部壬生地域を含む)から構成され、東南部の西ノ京西月光町は近世から明治初期まで、西ノ京村ではなく三条台村(二条御城廻)に属した。面積は0.44 平方キロメートルである[注釈 6]。
人口・世帯数
[編集]京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[13]、朱雀第四学区の区域に設定されている国勢統計区(中京区第11国勢統計区[注釈 7])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は6,741人、3,677世帯である。
朱雀第四学区の通り
[編集]朱雀第四学区の町名
[編集]交通
[編集]- 鉄道
- 路線バス
- 京都市営バス 停留所
- 太子道
- 西大路御池
- 西大路三条
主な施設
[編集]- 教育機関
- 京都市立朱雀第四小学校(西ノ京笠殿町)
- その他
歴史
[編集]- 史跡
- 御土居
- 西三条台改暦所
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脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 読みは以下のページに基づく。“京都市立学校・幼稚園のホームページ一覧”. 2024年3月2日閲覧。
- ^ 西ノ京東中合町・西ノ京下合町・壬生上大竹町については、町全域が朱雀第四小の通学区域となる。
- ^ 学区(元学区)の読みは、『中京暮らしの文化・歴史絵巻』 (2020), p. 25, 「朱雀第四学区」にもとづく。
- ^ 第二次世界大戦前の京都市の学区については、学区内に新たに小学校が創立して通学区域が分割されても、学区の区域が分割されることはなかった。(→「京都の元学区」の記事を参照。)
- ^ 『中京暮らしの文化・歴史絵巻』 (2020)など中京区役所の資料で昭和16年に朱雀地域が8つの学区となると記しているのは、このときに8つの小学校(国民学校)に対応して8つの町内会連合会が設置されたことによると考えられる。
- ^ 京都市地域統計要覧ウェブサービスの国勢統計区別集計において、総務省統計局「地図で見る統計(jSTAT MAP)」に登録されている境界データから算出された数値として示される面積。
- ^ 令和2年国勢調査時点
出典
[編集]- ^ a b c d 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 74, 「京都市立朱雀第四小学校」
- ^ a b c d 『京都市学区大観』 (1937), pp. 76–79, 「中京区朱雀学区」
- ^ a b c d “朱雀第四小学校 令和5年度「学校沿革史」”. 2024年3月24日閲覧。
- ^ 『昭和十年六月水害並応急措置の概況』,京都市,[1935]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1272875 (参照 2023-05-27)
- ^ a b c “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2024年3月2日閲覧。
- ^ a b c “京都市通学区町名一覧(中京区)”. 京都市教育委員会. 2024年3月2日閲覧。
- ^ 「昭和4年3月29日京都府告示第80号」京都市 編『京都市 地名・町名の沿革』1994年、50-51頁。
- ^ a b 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 1 (政治・行政編)』京都府、1971年、248頁。doi:10.11501/9537070 。
- ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年、202頁。doi:10.11501/9537074 。
- ^ 京都市戦時生活局振興課 編「各區町內會聯合會別地域組合、高額貯蓄組合竝ニ國債債劵隣保消化目標額」『国民貯蓄増強のしるべ 昭和18年度』京都市、1943年、14-24頁。doi:10.11501/1274568 。
- ^ 町内会部落会又はその連合会等に関する解散、就職禁止その他の行為の制限に関する政令(昭和22年政令第15号)
- ^ “令和2(2020)年 国勢調査地図”. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)”. 2023年8月17日閲覧。
参考文献
[編集]- 『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年。doi:10.11501/1440637。
- 『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年。doi:10.11501/12111830。
- 中京区民ふれあい事業実行委員会90周年事業検討部会『中京区制90周年記念事業 中京暮らしの文化・歴史絵巻』2020年 。2024年3月2日閲覧。