邦良親王
邦良親王 | |
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続柄 | 後二条天皇第一皇子 |
全名 | 邦良 |
称号 | 皇太子(文保2年(1318年) - 正中3年(1326年)) |
身位 | 親王 |
出生 |
正安2年(1300年) |
死去 |
正中3年3月20日(1326年4月23日) |
埋葬 | 北白川陵 |
配偶者 | 禖子内親王 |
花山院定教女 他 | |
子女 | 康仁親王、邦世親王、弘覚、深守法親王、媋子内親王 他 |
父親 | 後二条天皇 |
母親 | 五辻宗子 |
邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう、正安2年(1300年) - 正中3年3月20日(1326年4月23日))は、大覚寺統の後二条天皇の第一皇子。叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが即位することなく薨御する。木寺宮家の祖となった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇#皇子の名の読みを参照。
生涯
[編集]早くから大覚寺統の正嫡として期待され、曽祖父の亀山法皇は姪である瑞子女王(前将軍宗尊親王の娘)を息子後宇多上皇(後二条天皇の父)の後宮に入れて永嘉門院の女院号を与えて、親王の養母として養育にあたらせた[1]。
親王が9歳のとき、父帝・後二条天皇が崩御する。本来ならば次の花園天皇(持明院統)の皇太子に立つべきであったが、幼少の親王を皇太子にする事には不安もあった(『神皇正統記』には当時、親王は鶴膝(鶴膝風)[2]を患っていたと記している)。そこで祖父である後宇多上皇の要請を受けた鎌倉幕府は、後二条天皇の在位が大覚寺統・持明院統間の皇位移譲約束である10年より短い事を配慮して、花園天皇の後に大覚寺統から中継ぎの天皇を立てることを容認し、後二条天皇の皇弟である尊治親王(後の後醍醐天皇)を皇太子に立てる事になった(文保の和談、ただし約束は存在しなかったとする説もある)。10年後、約束通り花園天皇から後醍醐天皇に皇位が譲られ、邦良親王が立太子された。
しかし、後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発する。邦良親王は叔母にあたる後宇多法皇の皇女禖子内親王を妃に迎えた。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止した。これは、前年に邦良親王の男子(康仁親王)が誕生した事を機に後醍醐天皇が譲位を強要される事態を阻止するために行ったとの説と、後宇多法皇の個人的あるいは政治的思惑による自発的なものであるという説とがある。
邦良親王は前述のように(鶴膝)健康に優れている訳ではないという問題を抱えていた一方で、邦良親王の早期即位は持明院統への皇位委譲を結果的には早める結果になってしまうため、後宇多法皇にとっても邦良への譲位が保障されるならば、その時期はむしろ遅い方が持明院統への皇位委譲が遅れて大覚寺統全体の利益には適うため、良策と考えられたからである。しかし、邦良への譲位に内心不満を抱く後醍醐と、既に成人しているにもかかわらず皇位を継承できない邦良の後醍醐への不満と焦りが、双方の側近を巻き込んで大覚寺統に亀裂を生み出し、これが後醍醐天皇による倒幕計画へとつながることになる。
元亨4年(1324年)9月、後宇多法皇崩御の3か月後に後醍醐天皇の打倒計画が発覚する(正中の変)。これに驚いた故法皇の側近や親王の側近達は鎌倉幕府に後醍醐天皇の譲位を要請する一方、持明院統にも次期皇太子を約束して協力を求めた。後醍醐天皇はこれに強く反発し、幕府に釈明と譲位繰り延べの要請をする。その結果、邦良親王の使者と後醍醐天皇の使者が立て続けに鎌倉に派遣されることになり、持明院統の花園上皇はそのさまを「世に競馬と号す」と記している(『花園天皇日記』正中2年正月13日条)。しかし、後醍醐天皇は譲位を拒み続けて事態は膠着、そうした中で邦良親王は27歳で薨御した。
なお親王の第一王子である康仁親王は、後醍醐天皇が再度の倒幕計画(元弘の変)に失敗して流罪となり、持明院統の光厳天皇が即位すると、大覚寺統の嫡流として皇太子に立てられたものの、翌年の幕府滅亡と後醍醐天皇の復帰とともに光厳天皇ともども廃位されている。
系譜
[編集]- 父:後二条天皇
- 母:五辻宗子
- 妃:禖子内親王(崇明門院)‐後宇多天皇皇女
- 妻:花山院定教女
- 妻:僧正俊覚女
- 男子:弘覚
- 妻:尾張局(長橋局とも)
- 男子:深守法親王
- 女子:媋子内親王
- 王子
- 王女
- 妻:北畠重子‐北畠師重女
- 王女
次男・邦世親王は「土御門宮」を号した。邦世親王の子・邦成王には子がなかったため、その弟の寿龍が土御門宮家を継承したが、元服前に遁世した禅僧となったため、寿龍の子の邦満が跡を継ぎ、柳原宮と改称したとされる。邦満あるいはその子で柳原宮家を継承した人物が嘉吉2年(1442年)4月以前に死去し、継承者となるべき子はいたものの、後花園天皇の命令で所領を失い、柳原宮家は断絶した[3]。
系図
[編集]88 後嵯峨天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 【持明院統】 89 後深草天皇 | 【大覚寺統】 90 亀山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 (鎌倉将軍7) | 92 伏見天皇 | 久明親王 (鎌倉将軍8) | 91 後宇多天皇 | 恒明親王 〔常盤井宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 後伏見天皇 | 95 花園天皇 | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | 94 後二条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 邦良親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康仁親王 〔木寺宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||