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昭和コンクリート硬式野球部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昭和コンクリート硬式野球部
チーム名(通称) 昭和コンクリート、昭コン
加盟団体 日本野球連盟
加盟区分 企業チーム
創部 1990年
廃部 2003年
チーム名の遍歴
  • 昭和コンクリート (1990 - 2003)
本拠地自治体
  • 岐阜県岐阜市 (1990 - 2003)
  • 都市対抗野球大会
    出場回数 6回
    最近の出場 2003年
    最高成績 ベスト8
    社会人野球日本選手権大会
    出場回数 1回
    最近の出場 1996年
    最高成績 2回戦
    全日本クラブ野球選手権大会
    出場回数 ※出場資格なし

    昭和コンクリート硬式野球部(しょうわコンクリートこうしきやきゅうぶ)は、岐阜県岐阜市に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。2003年に解散した。

    運営母体は、昭和コンクリート工業

    概要

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    かつて県立岐阜商業高で野球部に所属していた昭和コンクリート工業村瀬恒治社長により、1990年に『昭和コンクリート硬式野球部』として発足[1]

    1995年にはJABA伊勢大会JABA高山市長旗争奪飛騨高山大会で優勝している。

    1996年都市対抗野球に初出場を果たすと、その後4年連続で本大会に出場。また、同年は日本選手権にも初めて出場した。

    創部当初からキューバ人選手を加入させており、さらには1999年に元プロ野球選手林純次が入部するなど[2]、積極的な戦力強化を図った。さらに岐阜市内に専用球場を設けるなど、急速な投資を行った。

    2001年にはコーチ兼内野手として前原博之を獲得するなど強化を進め、同年の都市対抗野球ではベスト8に進出し、同じ岐阜県に本拠地を置く西濃運輸と並ぶ強豪になっていった[3]

    しかし、経営環境の悪化などから2002年に休部を決定[3]。同年の都市対抗野球で本大会出場を逃したことから休部を1年間延期し[1]2003年都市対抗野球1回戦敗退をもって活動を終了した。

    沿革

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    • 1990年 - 『昭和コンクリート硬式野球部』として創部。
    • 1996年 - 都市対抗野球に初出場(2回戦敗退)。日本選手権に初出場(初戦敗退)。
    • 2001年 - 都市対抗野球でベスト8進出。
    • 2003年 - 活動停止。

    主要大会の出場歴・最高成績

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    出身プロ野球選手

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    元プロ野球選手の競技者登録

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    • 林純次 - 投手(1999年 - 2003年)→休部に伴い西濃運輸に移籍 ※1961年の柳川事件以降30年余り断絶されていた元プロ野球選手のアマチュア復帰第1号選手
    • 前原博之 - 内野手兼任コーチ(2001年 - 2002年)→引退し社業に就き、2007年に退社

    かつて在籍していた選手

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    脚注

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    1. ^ a b 毎日新聞、2003年8月28日付朝刊、中部地方版、P.25
    2. ^ 林の入部はいわゆる柳川事件後にプロ経験者が社会人野球界に復帰する第1号の事例であった。
    3. ^ a b 毎日新聞、2002年9月25日付朝刊、岐阜地方面

    関連項目

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