コンテンツにスキップ

斉藤安代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
斎藤安代から転送)
さいとう やすのり
斉藤 安代
本名
別名義 斎藤 安代
生年月日 (1927-09-14) 1927年9月14日
没年月日 (2005-04-06) 2005年4月6日(77歳没)
出生地 日本の旗 日本 静岡県
死没地 日本の旗 日本 東京都町田市
職業 映画プロデューサー民間放送局経営者
ジャンル 劇場用映画現代劇)、テレビ映画
活動期間 1952年 - 2005年
事務所 東映東京撮影所
東映テレビプロダクション
テレビ朝日
静岡朝日テレビ
主な作品
警視庁物語』(1956年 - 1964年)
人間の約束』(1986年)
テンプレートを表示

斉藤 安代(さいとう やすのり、1927年9月14日 - 2005年4月6日)は、日本の映画プロデューサー民間放送局経営者である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]東映東京撮影所の企画部から日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)へ転身して以降、同社常務取締役、同社常勤監査役静岡朝日テレビ代表取締役副社長等を歴任した[1][2]

東映時代、斎藤 安代とクレジットされた作品がある[5]インターネット・ムービー・データベースの表記 Yasuyo Saitô も、Movie Walker での読み「サイトウヤスオ」[10]も、いずれも誤りである[1][2]

人物・来歴

[編集]

1927年(昭和2年)9月14日、静岡県に生まれる[1][2]

第二次世界大戦後、旧制高等学校から東京大学文学部に入学、1949年(昭和24年)3月に卒業した[11]。在学中は、学園民主化をめざし自治会結成に尽力した[11]

1952年(昭和27年)4月、設立1年後の東映に入社する[1]。記録に残るもっとも古い作品は、1954年(昭和29年)7月13日公開の『とんち教室』(監督渡辺邦男)で、同作では松崎啓次(1905年 - 1974年)を筆頭にともに企画にクレジットされている[4][5][6][7][8][9]。当時、満26歳であった[1]。1955年(昭和30年)5月17日公開の『サラリーマン 目白三平』(監督千葉泰樹、主演笠智衆)およびその続篇として同年9月27日に公開された『続サラリーマン 目白三平』では、藤本真澄(1910年 - 1979年)、金子正且(1918年 - 2007年)という外部の先輩プロデューサーに伍す形で企画にクレジットされた[6][7][8][9][12]。1956年(昭和31年)2月18日に公開されたシリーズ第1作『警視庁物語 逃亡五分前』(監督小沢茂弘)では、坪井與に次いで企画にクレジットされたが、同年12月11日公開のシリーズ第3作『警視庁物語 追跡七十三時間』(監督関川秀雄)で一本立ちした[6][7][8][9]

1961年(昭和31年)6月23日に公開された『花と嵐とギャング』を、新東宝から移籍した石井輝男の「東映入社第一作」として、部下の吉田達(1935年 - )とともに企画した[6][7][8][9]。1963年(昭和38年)6月14日に公開された『警視庁物語 全国縦断捜査』(監督飯塚増一)以降4作は、部下の登石雋一(1932年 - 2012年)とともに企画にクレジットされた[6][7][8][9]。吉田達はのちに東映ビデオ取締役となり[13]、登石雋一はのちに東映化学工業(現在の東映ラボ・テック)の代表取締役社長となる人物である[13]。同年、当時東映が筆頭株主であった日本教育テレビ(1959年2月1日開局)に出向した[1]。同年に同社に入社した塙淳一山形勲の長男)[14]の回想によれば、邦画部長[15]であった斉藤は、1966年(昭和41年)のある日、『ある勇気の記録』の原作を手渡し、「君は独身だ、 殺されるかもしれないが、 やってみるか」 と打診したという[16]。同作は、東映テレビプロダクション中国放送との提携で製作された[17]

1970年代に入り、製作局長、途中、局長待遇の社長室長の時期を経て、編成局長を歴任する[11][18]。1980年代には編成局担当常務取締役、次いで常勤監査役に就任する[1][2]。1986年(昭和61年)には、『人間の約束』(監督吉田喜重)にテレビ朝日として製作出資し、製作に名を連ねる[4][5][6][7][8][9]。同作は同年9月13日に公開された[4][5][6][7][8][9]。その後、1991年(平成3年)までの時期に静岡県民放送(1978年7月1日開局[19][20])に転出し、代表取締役副社長に就任、静岡県広告協会の常任理事(1993年退任)を務めた[2][21]。1993年(平成5年)10月1日、静岡県民放送は静岡朝日テレビと商号を変更している[20]

2005年(平成17年)4月6日、東京都町田市の病院で心不全のため死去した[2]。満77歳没。

フィルモグラフィ

[編集]

特筆以外すべてのクレジットは「企画」である[4][5][6][7][8][9]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵・現存状況についても記す[5]

ビブリオグラフィ

[編集]

国立国会図書館蔵書等にみる論文等の書誌である[3]

  • 「番組セミナー・ある勇気の記録」斉藤安代 : 『放送文化』第22巻第2号、日本放送出版協会、1967年2月発行、p.40.
  • 日本民間放送連盟(編)「ずいひつ / 斉藤安代」『月刊民放』第22巻第8号、日本民間放送連盟、1992年8月1日、4頁、NDLJP:3471080/3 

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 新聞[1982], p.639.
  2. ^ a b c d e f g 斉藤安代氏死去 元静岡県民放送副社長共同通信社、2005年4月6日付、2014年12月1日閲覧。
  3. ^ a b c d 国立国会図書館サーチ検索結果、国立国会図書館、2014年12月1日閲覧。
  4. ^ a b c d e Yasuyo SaitoYasuyo Saitô (表記誤記), インターネット・ムービー・データベース (英語)、2014年12月1日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 斉藤安代斎藤安代東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年12月1日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i 斎藤安代文化庁、2014年12月1日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i 斎藤安代KINENOTE, 2014年12月1日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 斎藤安代allcinema, 2014年12月1日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i 斎藤安代日本映画データベース、2014年12月1日閲覧。
  10. ^ 斎藤安代Movie Walker, 2014年12月1日閲覧。
  11. ^ a b c 週刊朝日[1979], p.53.
  12. ^ a b c 映画監督 千葉泰樹、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年12月1日閲覧。
  13. ^ a b 年鑑[1994], p.264-265.
  14. ^ 塙淳一 - allcinema、2014年12月1日閲覧。
  15. ^ 年鑑[1967], p.160.
  16. ^ 私の新人時代塙淳一日本映画テレビプロデューサー協会、2014年12月1日閲覧。
  17. ^ ある勇気の記録テレビドラマデータベース、2014年12月1日閲覧。
  18. ^ 民放連[1973], p.168.
  19. ^ 会社案内静岡朝日テレビ、2014年12月1日閲覧。
  20. ^ a b 日本の企業がわかる事典2014-2015『静岡朝日テレビ』 - コトバンク、2014年12月1日閲覧。
  21. ^ 常任理事、静岡県広告協会、2014年12月1日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]