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斎藤信太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
斉藤信太郎から転送)
斎藤信太郎
さいとう しんたろう
生年月日 1843年6月15日
出生地 日本の旗 日本 陸奥国伊具郡耕野村
(現宮城県丸森町耕野)
没年月日 (1915-05-05) 1915年5月5日(71歳没)
所属政党 (宮城政友→)
(国民協会→)
(自由党→)
(無所属→)
帝国党
親族 兄・斎藤喜平治(宮城県会議員)

選挙区 宮城県第2選挙区
当選回数 1回
在任期間 1898年3月 - 1898年6月10日

在任期間 1879年1月 - 1880年1月
1880年9月 - 1898年3月
1899年9月 - 1903年3月

伊具郡会議員
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斎藤 信太郎(齋藤、さいとう しんたろう、1843年6月15日(天保14年5月18日[1][注釈 1])- 1915年大正4年)5月5日[2][3])は、明治から大正初期の農業経営者、実業家政治家衆議院議員。斉藤(齊藤)と表記する事例有り[4]

経歴

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陸奥国伊具郡耕野村[1][4][5][6]宮城県[2]伊具郡耕野村を経て現丸森町耕野)で、素封家[1]・斎藤広重の息子として生まれた[4]。経済学を修めた[4]。伊具郡丸森村[1](現丸森町[7])の斎藤茂吉の養子となり[4]、農業を営む[1]

1873年(明治6年)小学校の創設に尽力した[4]。1874年(明治7年)蚕種組合頭取に就任[4]。その他、丸森村学務委員、同村養蚕業頭取、伊具郡会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、隅口蚕業組合頭取なども務めた[2][3][4]

1879年(明治12年)1月、第1回宮城県会議員選挙に当選し[1]、1880年(明治13年)1月まで在任[1]。同年9月に再選され[1]、1898年(明治31年)3月まで務め[1]、さらに1899年(明治32年)9月から1903年(明治36年)3月まで在任[1]。この間、同参事会員、同副議長なども務め[1][2][5][6][7]、産業、教育などの振興に尽力した[1][5]

1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(宮城県第2区、准自由党)で当選し[8]、山下倶楽部に所属し衆議院議員に1期在任した[2][3]

実業界では、宮城県農工銀行設立委員、奥羽水産運輸会社支配人などを務めた[2][3]

国政選挙歴

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著作

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親族

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  • 実兄 斎藤喜平治(宮城県会議員)[1][5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『衆議院議員候補者列伝』斉1頁では天保4年5月26日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『宮城県議会史 第1巻』付録139頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』284頁。
  3. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』204頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『衆議院議員候補者列伝』斉1-2頁。
  5. ^ a b c d e 『宮城県百科事典』393頁。
  6. ^ a b 『宮城県姓氏家系大辞典』345頁。
  7. ^ a b 『仙台人名大辞書』409頁。
  8. ^ a b c d 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』93頁。
  9. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』34頁。
  10. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』20頁。

参考文献

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  • 大久保利夫『衆議院議員候補者列伝 一名・帝国名士叢伝 第3編』六法館、1890年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会、1933年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 宮城県議会史編さん委員会編『宮城県議会史 第1巻』宮城県議会、1968年。
  • 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 竹内理三ほか編『宮城県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典4、角川書店、1994年。