南浦文之
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(文之玄昌から転送)
南浦文之(なんぽぶんし、弘治元年(1555年) - 元和6年9月30日(1620年10月25日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。
俗姓は湯佐氏(一説に和仁氏)[1][2][3][注釈 1]。別名文之玄昌(ぶんしげんしょう)。別号雲興軒・時習斎。
経歴
[編集]弘治元年(1555年)に日向国飫肥の南郷外浦に生まれる。号の南浦はこの出生地に由来する。幼い頃から非凡ぶりを発揮し、文殊童と呼ばれていた。12歳のとき、現在の日南市南郷にあった延命寺(現、西明寺)と言う禅門に入り、諱は玄昌で、桂庵玄樹の孫弟子にあたる龍源寺の一翁玄心に禅と儒学を、明の江夏友賢に五経周易の宋学を学んだ。章句訓詁に秀で、15歳で京に上り東福寺龍吟庵の煕春竜喜の法嗣となり、雲興・懶雲・狂雲などとも号した。
慶長7年(1602年)、島津家久が創建した大竜寺の開山となり、翌8年(1603年)、島津氏の嘱により使として徳川家康に謁し、家康の薦めで建長寺に上堂秉払(じょうどうひんぼつ)の式を行い、後水尾天皇に召され宮中にて四書の新註の講を行うなど、その学識の深さで知られる。島津義久・家久らの深い帰依もあり、薩摩藩の明や琉球との外交文書を司っていた。桂庵玄樹に始まる薩南学派とよばれる朱子学を継ぎ、『四書集註』に玄樹が施した訓点を改訂した[5]。
著書に『鉄炮記』『南浦文集』『日州平治記』『決勝記』などがある。
元和6年(1620年)9月30日、66歳で死去。墓所は鹿児島県姶良市の太平山安国寺(墓は国の史跡に指定)。
薩摩藩の剣術家であった東郷重位の剣術へ「示現流」との流派名を与えている。
主な著書
[編集]- 鉄炮記
- 南浦文集
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本史料 第十二編之三十四』東京帝国大学、1943年、377、379頁。全国書誌番号:73016145 。「薩州旧記」大龍開山文之大和尚行状、および「漢学起源」南浦第三十六。
- ^ 神谷成三 著「文之和尚の生涯(上)―生い立ちより慶長十五年頃までの行李とその詩、文―」、鹿児島大学教養部 編『鹿児島大学文科報告 第四号 国文学・漢文学』鹿児島大学教養部、1968年、20頁。doi:10.11501/1759046。
- ^ 「文之玄昌」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2024年10月13日閲覧。
- ^ 森慶造『南浦文之和尚』民友社〈成簣堂叢書第十一篇別冊〉、1918年、24頁。全国書誌番号:43041843 。
- ^ 田尻祐一郎「南浦文之」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 。コトバンクより2018年3月22日閲覧。