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提岩里教会事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
提岩里虐殺事件から転送)

提岩里教会事件(ていがんりきょうかいじけん)[1]は、1919年4月15日日本統治下朝鮮京畿道水原郡郷南面提岩里(現在の華城市郷南邑提岩里)で、三・一独立運動の最中に生じた事件。暴動を指揮した29名の朝鮮人が殺害された。

概要

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三・一独立運動の余波を受けて、全羅道を除く朝鮮半島全土で朝鮮人による暴動(朝鮮騒乱)が発生した[2]。4月上旬には京畿道でも暴動が発生し、憲兵駐在所・警察署のみならず民家に対しても破壊や放火が行われ、日本人が避難する事態となっていた。4月3日、2千余名の棍棒を携えた群衆が長安、雨汀の事務所を襲撃して破壊活動が行われた。そのまま、群衆は花樹里駐在所を襲撃し、放火により全焼させた。駐在していた川端豊太郎巡査は取り囲まれて棍棒などで撲殺された後、死体を損壊(歯を抜き、鼻耳を切り、関節を折り[3]。)された[4]

4月13日に朝鮮軍歩兵第40旅団から暴徒鎮圧の命令を受けた有田俊夫中尉が指揮する歩兵11人が発安(郷南面)に到着した。有田中尉は提岩里の住民から暴動を起こしているのはキリスト教徒、天道教徒であるとして、その殲滅を要請され[5]、朝鮮軍からの暴動鎮圧の指令を匪賊討伐と解して、首謀者たちの巣窟を滅ぼすことで禍根を断つことを決心し、暴動の首謀者である天道教キリスト教の信者の18歳以上50歳以下の男性20余名と妻女1名を集めて射殺または刺殺した。その後、日本人惨殺に対する報復心を持つ兵士が教会を焼き払った[6]。この時、民家に延焼したことにより、28戸が焼失し、民間人女性1名が焼死した[2][3]

2007年に岩波書店から刊行された、当時の朝鮮軍司令官だった宇都宮太郎の日記(日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記)によれば、「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども、斯くては左らぬだに毒筆を揮いつつある外国人等に虐殺、放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益と為り、一面には鮮内の暴民を増長せしめ、且つ鎮圧に従事しつつある将卒に疑惑の念を生じさせむるの不利を以て、抵抗したるを以て殺戮したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す。」[7]と虐殺は認めない方針を決めたが、翌日に朝鮮総督長谷川好道が虐殺を認めて過失として行政処分にするように指示したため、軍関係者は協議の末に有田中尉に30日間重謹慎処分を下した[8]が、その後の軍法会議による判決(1919年8月21日付)で殺人・放火に関して無罪が確定した。

長谷川朝鮮総督が「堤岩里付近ノ状況ハ、京城在住ノ外国人ニ宣伝セラレ、英国総領事代理、米国領事、及ビ外国宣教師、一部現状ヲ視察シタリ。御参考迄。」と原敬総理大臣に報告し[9]、宇都宮が「毒筆を揮いつつある外国人等に虐殺、放火を自認することと為り」と懸念していたとおり、在京城カナダ人宣教師フランク・ウィリアム・スコフィールドAP通信に特別採用されたアルバート・テイラーたちにより、事件は日本軍による虐殺事件として世界中に報道された[10][11][12]。米国領事や英国領事らも本国に事件を報告すると日本批判の世論が高まり、米英から朝鮮統治の改善が日本に要請され、日本の朝鮮統治が「武断政治」から「文化政治」に転換する遠因となった[13]

事件の詳細

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堤岩里3・1運動殉国記念館が保管する証言資料を総合して事件の過程を再構成すると、次のようになる(ただし、時間と名前など細部において誤りがある可能性がある)。

  1. 有田中尉は、佐坂と朝鮮人巡査補趙熙彰に命じて、堤岩里住民のうち成人男性(15歳以上)を教会に集めた。
  2. 予め名簿を持っていたらしく、来ない人は探して呼んで来た。
  3. 有田中尉が、集まった人々に「キリスト教の教え」について問うたところ、安(安鍾厚と推定)という信者代表が答えた。
  4. 有田中尉は教会の外に出るやいなや射撃命令を下し、これに応じて教会堂を包囲していた軍人たちが窓から中を射撃した。
  5. 射撃が終わった後、教会にわらと石油をまいて火をつけた。
  6. 風が強く吹き、火は教会下手の家に燃え移り、上手の家は軍人たちが回って火を放った。
  7. 教会に火がつくと、洪(洪淳晋と推定)と「郷南面に通っていた人(安相鎔と推定)」及び「ノギョンテ」が脱出しようとしたが、洪は逃亡中に射殺され、「郷南面に通っていた人」は、家の中に避難したが発覚し殺害され、ノギョンテは山に逃げて生き残った。
  8. 脱出したところを射殺されたらしき死体が、二つ三つ教会の外にあった。
  9. 村で出火したのを見て駆けつけた姜泰成の妻(19歳)が、軍人に殺害された。
  10. 洪氏(洪元植)の妻も軍人の銃を受けて死んだ。
  11. 軍人たちは古洲里村に行き、天道教信者六人を銃殺した。

韓国の認識

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2019年3月1日、文在寅大統領は、三・一運動記念式の演説で、事件について「京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。しかし、それとは対照的に朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいませんでした」と述べた[14]

関連文献

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  • 朝鮮総督府資料「騒密770号,提岩里騒擾事件ニ関スル報告(通牒)」大正8年(1919年)4月24日
  • 英字新聞ジャパン・アドバタイザー」1919年4月27日号
  • 「福音時報」1919年5月, 1244〜1246号
  • 『三・一独立運動と堤岩里教会事件』韓国基督教歴史研究所編著 信長正義訳 神戸学生青年センター出版部, 1998年5月
  • 『三・一独立運動と堤岩里事件』小笠原亮一, 姜信範, 飯沼二郎, 李仁夏, 池明観, 土肥肥夫, 澤正彦, 飯島信 [著および述], 金明淑, 金性済 [訳] 日本基督教団出版, 1989年2月
  • 『三・一運動(現代史資料 25-26.朝鮮)』姜徳相編 1-2 みすず書房, 1966-1967, 2冊

脚注

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  1. ^ このタイトルについては(李徳周、常石希望「翻訳 李徳周「初期韓国教会の民族教会的性格」(2)(2/3)」『言語と文化 : 愛知大学語学教育研究室紀要』第44巻第17号、愛知大学語学教育研究室、2007年7月、121-144頁、CRID 1050564287671954048ISSN 13451642 )をもとに選定した。
  2. ^ a b 国立公文書館 レファレンスコード:A04017275800 「単行書・八年陸乙七一・朝鮮騒擾経過概要」其三 四月中ニ於ケル騒擾ノ概要
  3. ^ a b 防衛省防衛研究所 有田中尉に係る裁判宣告の件 レファレンスコード:C03022465000 1143ページ
  4. ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 政治(16-125) 大阪朝日新聞 1919.8.10 (大正8)[1] 「同里警察官駐在所附近に於て合して二千余の暴民一団となり勢猛に駐在所を殺倒し独立万歳を高叫しつつ投石し若くは棒を振って狂暴を逞しうし遂に火を放ちて同所建物を全焼ぜしめ且つ同所在勤巡査川端豊太郎が防止の術尽き逃走せるを追跡し駐在所を距る東北方約八十間の地点に包囲して棍棒及び石を以て乱打惨殺したるものなり」
  5. ^ 第096回国会 外務委員会 第24号 東中光雄議員の照会「京城発 大正八年四月廿二日後一、五〇 本局着 同後六、三一 長谷川総督から原総理大臣(拓殖局長官)宛の文書」を参照 [2] 「堤岩里ノ殺生及ビ放火ハ嚮ニ発安場ニ於テ同地小学校ヲ焼キ暴行ヲ為シタルモノハ堤岩里基督天道両教徒ナル旨同村内地民ヨリ訴ニ接シ且彼等ヲ掃滅セラレタシト部落民ノ懇請ヲ受ケ前述ノ処置ニ出デタルニ却テ反抗シタルタメ斯ノ如キ行為ニ出デタルモノノ如シ」
  6. ^ 第096回国会 外務委員会 第24号 東中光雄議員の照会「京城発 大正八年四月廿二日後一、五〇 本局着 同後六、三一 長谷川総督から原総理大臣(拓殖局長官)宛の文書」を参照 [3] 「前述検挙班コウナコウ地方ニ於テ火災ヲ生セシハ取調ノ結果一部ハ夜間混雑ノ結果失火シタルモノナルモ他ノ一部ハ暴民ノ獰悪ナル行為殊ニ巡査二名ノ惨殺ニ報復心ヲ起シ居タル検挙班員ノ放火ナル事ヲ確メタ」
  7. ^ 宇都宮太郎日記 3巻 岩波書店 (四月十八日)
  8. ^ 宇都宮太郎日記 3巻 岩波書店 (四月十九日)「然るに午后に至り、総督より再び会ひ度しとのことに往訪せしに、今周知の事を全部否認するは却で不利なる無らん乎、其幾分は過失を認めて行政処分にても為し置くこと得策にはあらざる乎とのことに、此夜大野をして前決心を遂行し度内意にて明日往訪せんとするの意あることを内談せしめしに、総督は矢張行政処分丈は為し置を可とする旨復命せし故、来合せたる児島中将、大野、山本等と相談中、浄法寺、内野も来会し、虐殺放火は否認し、其鎮圧の方法手段に適当ならざる所ありとして三十日間の重謹慎を命ずることに略決心、散会せしは午前一時近かりし。」
  9. ^ 第096回国会 外務委員会 第24号 東中光雄議員の照会「京城発 大正八年四月廿二日後一、五〇 本局着 同後六、三一 長谷川総督から原総理大臣(拓殖局長官)宛の文書」を参照 [4]
  10. ^ 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年2月。
  11. ^ 2013年12月27日14時56分中央日報/中央日報日本語版
  12. ^ 中央日報 2016年02月27日 三・一独立運動を伝えたAP特派員の邸宅「ディルクシャ」復元へ[5]
  13. ^ 立命館法学 1999年3号(265号) 140頁 英米からみた日本の朝鮮支配(1)- 戦間期領事報告を中心に -梶居 佳広 [6]
  14. ^ <三・一運動記念式の文大統領演説全文>”. 聯合ニュース (2019年3月1日). 2019年4月19日閲覧。

外部リンク

[編集]
国立公文書館 https://www.jacar.go.jp/
レファレンスコード:C03022465000
  • 朝鮮騒擾経過概要
国立公文書館 https://www.jacar.go.jp/
レファレンスコード:A04017275800

座標: 北緯37度07分34.3秒 東経126度53分36.8秒 / 北緯37.126194度 東経126.893556度 / 37.126194; 126.893556