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戸田川鷲之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸田川鷲之助 (5代)から転送)
戸田川 鷲之助
基礎情報
四股名 戸田川 鷲之助
本名 井桁 秀五郎
生年月日 1792年
没年月日 1819年5月3日(旧暦4月10日
出身 上総国埴生郡
身長 不明
体重 不明
所属部屋 玉垣部屋錣山部屋
成績
現在の番付 引退
最高位 西小結
生涯戦歴 39勝67敗53休3分2預1無(17場所)
幕内戦歴 37勝59敗53休3分2預1無(16場所)
データ
初土俵 1808年10月場所(小結)
入幕 1808年10月場所(小結)
引退 1819年4月場所(番付のみ)
備考
記録に残る三役昇進年齢としては史上最年少
2019年6月29日現在

戸田川 鷲之助(とだがわ わしのすけ、1792年(寛政4年) - 1819年文政2年)5月3日(旧暦4月10日))は、上総国埴生郡(現在の千葉県茂原市綱島[1])出身の元大相撲力士。本名は井桁 秀五郎(いけた しゅうごろう)。

来歴

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1792年(寛政4年)に上総国埴生郡で生まれる。1808年(文化5年)10月場所において松江藩の抱え力士として初土俵踏むと、いきなり西小結に付け出される。数え年17歳(満16歳)での三役となり、記録に残る三役昇進年齢としては史上最年少記録である。しかしこれには、義父だった相撲会所頭取・錣山喜平治の強い意向があったと伝わる[2]。その特別待遇ぶりに仲間から妬まれたせいか成績は振るわず、僅か4場所で前頭へ転落、1815年(文化12年)から1817年(文化14年)までは江戸を離れて大坂相撲に加入していた。これらの心労から体調を崩し、1819年文政2年)4月場所開催直前だった4月10日に死去、28歳没。

主な成績

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  • 通算成績:39勝67敗53休3分2預1無 勝率.368
  • 幕内成績:37勝59敗53休3分2預1無 勝率.385
  • 小結成績:6勝12敗21休1無 勝率.333
  • 現役在位:17場所
  • 幕内在位:16場所
  • 小結在位:4場所

場所別成績

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戸田川 鷲之助
春場所 冬場所
1808年 x 西小結
0–0–10 
1809年 西小結
0–0–10 
西小結
2–8 
1810年 西小結
4–4–1
1無
 
西前頭7枚目
3–6
1分
 
1811年 西前頭7枚目
1–6–2
1預
 
西前頭8枚目
3–6
1分
 
1812年 西前頭8枚目
1–4 
西前頭6枚目
4–6 
1813年 西前頭5枚目
4–5–1 
西幕下2枚目
2–8 
1814年 西前頭9枚目
4–3–3 
西前頭9枚目
0–0–10 
1815年 (大坂相撲) (大坂相撲)
1816年 (大坂相撲) (大坂相撲)
1817年 (大坂相撲) 西前頭7枚目
4–5
1預
 
1818年 西前頭5枚目
2–2–5
1分
 
西前頭5枚目
5–4–1 
1819年 東前頭3枚目
引退
0–0–10[3]
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 当時は十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。

改名歴

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  • 戸田川 鷲之助(とだがわ わしのすけ):1808年10月場所 - 1813年2月場所
  • 戸田川 吉五郎(とだがわ きちごろう):1814年4月場所 - 1814年11月場所
  • 戸田川 秀五郎(とだがわ ひでごろう):1817年10月場所 - 1818年3月場所7日目
  • 錣山(しころやま):1818年3月場所8日目 - 同場所千秋楽
  • 錣山 秀五郎(しころやま ひでごろう):1818年10月場所 - 1819年4月場所(没後だったが、番付上は全休扱いで記載)

脚注

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  1. ^ 千葉県出身の幕内力士”. 千葉県ホームページ. 2020年2月25日閲覧。
  2. ^ https://web.archive.org/web/20040223093817/http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/6/0011.htm 記録の限界(大相撲 記録の玉手箱)
  3. ^ 場所開催前に死去。

出典

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関連項目

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