慶佐次
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(慶佐次氏から転送)
慶佐次区 | |
---|---|
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 沖縄県 |
自治体 | 国頭郡東村 |
旧自治体 |
久志間切慶佐次村 国頭郡慶佐次村 国頭郡久志村字慶佐次 |
面積 |
8.15km² |
世帯数 |
73世帯 |
総人口 |
160人 (国勢調査、2010年10月1日現在) |
人口密度 |
19.63人/km² |
北緯26度36分52秒 東経128度7分51秒 / 北緯26.61444度 東経128.13083度座標: 北緯26度36分52秒 東経128度7分51秒 / 北緯26.61444度 東経128.13083度 | |
かつて存在した慶佐次村(げさしむら)についても当記事で扱う。
慶佐次村
[編集]慶佐次村は、1908年(明治41年)まで琉球王国および沖縄県に存在した村。
歴史
[編集]北山世主の子孫とされる慶佐次大主の一族が移り住んだのが村の始まりとされる[1]。当初は名護間切に所属し、『琉球国高究帳』には「名護間切げさす村」との名が見えるが、1673年(康煕12年)には久志間切に配されたと考えられ、『中山伝信録』にある「久志間切宜作次」が同村だと推定されている[1]。1879年(明治12年)に沖縄県、1896年(明治29年)に国頭郡の一部となった[1]。1908年(明治41年)に久志村に合併され、同村の字となった[2]。
近隣の有銘村はの慶佐次村の分村とされ、「アルミ・ギサシ」と併せて呼ばれる[2]。また、沖縄県のノロについて研究した宮城栄昌は、有銘ノロの管轄が有銘村と慶佐次村の二村だったとしている[3]。
施設
[編集]人口
[編集]- 1880年(明治13年) - 46世帯・227人(男126人・女101人)[4]
慶佐次区
[編集]地理
[編集]国頭山地から有銘湾に注ぐ慶佐次川下流に位置する集落[5]。
地形
[編集]- 慶佐次川
- 慶佐次湾
歴史
[編集]1908年(明治41年)以降、久志村の字として存続していたが、1923年(大正12年)には字慶佐次を含めた久志村北部が東村として分村し、東村の字として存続している[1]。
施設
[編集]交通
[編集]道路
[編集]バス
[編集]- 東村コミュニティバス
- 平良・源河線
統計
[編集]世帯数 | 人口 | |
---|---|---|
1970年[1] | 45 | 177 |
2010年[6] | 73 | 160 |
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g “げさし【慶佐次】沖縄県 東村”. 新版 角川日本地名大辞典.
- ^ a b c d “慶佐次村”. 日本歴史地名大系.
- ^ 宮城栄昌「沖繩のノロの管轄地域について」『横浜国立大学人文紀要. 第一類哲学・社会科学』第13巻、横浜国立大学、1967年12月、1-33頁、CRID 1050282677658557056、hdl:10131/2474、ISSN 0513-5621。
- ^ 『沖縄県統計書 明治13年』沖縄県警察部、1882年、132頁。
- ^ “行政区の紹介|東村 花と水とパインの村”. 国頭郡東村公式HP. 2022年1月16日閲覧。
- ^ “沖縄県国頭郡東村字慶佐次 - 人口総数及び世帯総数”. 人口統計ラボ - 国勢調査GIS 平成22年版. 2022年1月16日閲覧。