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弘時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
愛新覚羅弘時から転送)
愛新覚羅 弘時
清の皇族
続柄 雍正帝第三皇子

出生 康熙43年2月13日(1704年3月18日)
清の旗 大清国北京紫禁城
死去 雍正5年8月6日(1727年9月20日)
清の旗 大清国
配偶者 董鄂氏
父親 雍正帝
母親 斉妃李氏
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愛新覚羅 弘時(あいしんかくら こうじ、康熙43年2月13日(1704年3月18日) - 雍正5年8月6日(1727年9月20日))は、雍正帝の第三皇子。母は斉妃李氏。

生涯

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雍正帝第三皇子として生まれた。生母の李氏は康煕帝第四皇子雍親王(後の雍正帝)の側福晋(側室)であった。

祖父康煕帝からの覚えもめでたく、父雍正帝からも期待されていた異母弟の弘暦(後の乾隆帝)と違い、特別に才能があるわけではなく、爵位も与えられなかったが、父の異母弟で政敵の第八皇子胤禩と親密な関係にあった。

雍正4年2月18日(1726年3月21日)、父雍正帝の怒りに触れた弘時は、「放縱不謹」を理由に宗籍を剥奪され、強制的に「アキナ (阿其那)」に改名させられ、宗籍を喪失し、宗人府に監禁されていた胤禩の養子とされ、宗人府に監禁された。

雍正5年8月6日(1727年9月20日)、宗人府に監禁されたまま、24歳で死去。

異母弟弘暦が乾隆帝として即位すると、兄弟の上に免じて、弘時の宗籍を恢復させた。

家族

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妻妾

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  • :鍾氏 - 鍾達之女。
  • :田氏

子女

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いずれも早逝

  • 第一子永珅 - 康熙60年7月20日(1721年9月11日)生。雍正2年1月6日(1724年1月31日)逝去。生母は鍾氏。
  • 次女 - 康熙61年9月5日生。雍正5年4月13日逝去。生母は嫡福晋董鄂氏。
  • 次女 - 雍正2年2月29日生。雍正4年4月29日逝去。生母は田氏。

登場作品

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参考文献

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