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松平勝長

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松平 勝長
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文2年8月14日1737年9月8日
死没 文化8年9月13日1811年10月29日
改名 勇之助、勝長、鳳山
別名 徳川勝長
戒名 亮諦院住誉心覚全超
墓所 相応寺
官位 従四位下左近衛権少将掃部頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川宗睦斉朝
尾張藩
氏族 尾張徳川家
父母 父:徳川宗勝、母:嘉代(英巌院)
兄弟 房姫、徳川宗睦義敏、豊姫、義当勝長勝綱竹腰勝起、邦姫、井上正国内藤頼多勝鷹、品姫、恭姫、陽姫、内藤政脩ら15男11女
留代(木造重愛の娘)、松平忠左衛門の娘
睦英、勇丸
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松平 勝長(まつだいら かつなが)は、江戸時代中期から後期にかけての武士。徳川勝長とも名乗った。鳳山と号した[1]

略歴

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元文2年(1737年)8月14日、尾張藩藩主徳川宗勝の六男として江戸で誕生した[注 1][2][1]。母は嘉代(英巌院)[2][1]幼名は勇之助[2]

寛延元年(1748年)7月1日、父・宗勝の一字をとり、勝長と名乗る[2]。同年9月15日、将軍家重に初めて御目見する[2]。同年12月21日、従四位下左近衛権少将に任じられ、掃部頭を称した[2]

岩井正斎に絵を学んだ[1]

安永6年(1777年)11月7日、長男・悦之助が誕生した[2]。母は留代(木造重愛の娘)[2]寛政4年(1793年)2月1日、9代藩主・徳川宗睦から一字をとり、睦英と名乗る[2]。同年6月9日、尾張で死去した[2]

寛政5年(1793年)9月20日、二男・勇丸が誕生した[3]。母は松平忠左衛門の娘[4]。同6年(1794年)11月9日、宗睦の養子となる[4]。同7年(1795年)9月20日、尾張で死去した[5]

文化8年(1811年)9月13日、尾張で死去した[2][1]。77歳[1]相応寺に葬られた[1]法号は亮諦院住誉心覚全超[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『尾張家御系譜』では享保20年(1735年)とも記されているが、「実ハ」としてこちらの生年が正しいとしている[2]

出典

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参考文献

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外部リンク

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