東富田地区
東富田地区 ひがしとみだ | |
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国 | 日本 |
地方 | 四国地方 |
都道府県 | 徳島県 |
自治体 | 徳島市 |
旧自治体 | 名東郡富田浦町 |
世帯数 |
3,678世帯 |
総人口 |
7,035人 (徳島市情報推進課、2011年6月1日) |
隣接地区 | 内町地区・昭和地区・八万地区・西富田地区・新町地区 |
徳島市役所東富田コミュニティセンター | |
所在地 |
〒770-0936 徳島県徳島市中央通4丁目18番地 |
東富田地区(ひがしとみだちく)は、徳島県徳島市の行政上の地区である。内町・新町・東富田・西富田地域(都心地域)に属する[1]。
地理
[編集]徳島市中央部、中心駅徳島駅の南方に位置し、都心地域(中心市街地)南部を占める。
北は新町川を挟んで内町地区に面し、橋で結ばれている。南は御座船入江川上流部だったが、ほとんどは埋め立てられて部分的に水路が残るのみで、道路などで八万地区と接している。ある。西は西富田地区と接し、その境は北部では南北の通りの境になっているが、南部では大きく西へはみ出て、西富田地区の南に入り、眉山山麓の二軒屋町までが含まれる。東では昭和地区と接する。
幹線道路が縦横に走り、その沿線に商業地域が発達している。東縁近くを南北に走る国道55号、西縁近くを南北に走る両国橋通り、北部を新町川に平行に東西に走る県道136号、南西端の二軒屋町を通過する国道438号がそれにあたる。
隣接する地区
[編集]新町地区 | 内町地区 | |||
西富田地区 | 昭和地区 | |||
東富田地区 | ||||
八万地区 |
地形
[編集]ほぼ全域が、標高数メートルの沖積平野である。
町
[編集]人口は徳島市による推計[2](2011年6月)。
町丁 | 丁目 | 人口 | 注記 |
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栄町 | 5・6丁目 | 123 | 全6丁目のうち。 |
鷹匠町 | 5・6丁目 | 154 | 全6丁目のうち。 |
かちどき橋 | 1~6丁目 | 963 | |
明神町 | 1~6丁目 | 903 | |
富田橋 | 1~8丁目 | 2067 | |
富田浜 | 1~3丁目 | 168 | |
仲之町 | 1~4丁目 | 379 | |
南仲之町 | 1~4丁目 | 284 | |
中央通 | 1~4丁目 | 253 | |
伊月町 | 1~6丁目 | 703 | |
秋田町 | 1~6丁目 | 567 | |
二軒屋町 | 1~3丁目 | 360 | |
西二軒屋町 | 1丁目 | 360 | 全2丁目のうち。西二軒屋町全域を含める資料もある[3]。 |
南二軒屋町 | 一丁目1番 | 8 | 全3丁目7小字のうち。この地を含めない資料もある[3]。 |
計 | 7035 |
歴史
[編集]現在の東富田地区と西富田地区は、江戸時代には富田と呼ばれ、武家町が広がっていた。なお、富田に隣接した町屋が、新町(現 新町地区)の富田町である。
東富田では、主に裏掃除町(現 中央通)より北に屋敷があった。北部の富田浜側(現 富田浜)や中ノ丁(現 仲之町)には高禄武士が住んだが、南部は下級武士の屋敷だった。
富田は、明治初期までに名東郡富田浦町となり、1889年の徳島市制施行で徳島市の大字となった。1941年にいくつもの町に分割され、現在とほぼ同じ町割となった。
ただし二軒屋町一帯は他の地域とは異なり、江戸時代には町屋だった。明治初期までに名東郡二軒屋町となり、徳島市制施行で徳島市の大字となった。
交通
[編集]鉄道
[編集]道路
[編集]主な施設
[編集]出典
[編集]- ^ 徳島市:徳島市都市計画の基本方針(都市計画マスタープラン) - 徳島市開発部都市政策課
- ^ 徳島市:人口・世帯数 Archived 2007年8月19日, at the Wayback Machine. - 徳島市情報推進課
- ^ a b 河野幸夫『徳島 城と町まちの歴史』1982年 聚海書院