徐紹楨
徐紹楨 | |
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『改訂 現代支那人名鑑』(1928年) | |
プロフィール | |
出生: |
1861年6月30日 (清咸豊11年5月23日) |
死去: |
1936年(民国25年)9月13日 中華民国上海市 |
出身地: | 清広東省広州府番禺県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 徐紹楨 |
簡体字: | 徐绍桢 |
拼音: | Xú Shàozhēn |
ラテン字: | Hsü Shao-chen |
和名表記: | じょ しょうてい |
発音転記: | シュー シャオヂェン |
徐 紹楨(じょ しょうてい)は清末民初の軍人。辛亥革命では革命派に属し、護法運動以降も孫文(孫中山)を補佐した。字は固卿。祖籍は浙江省杭州府銭塘県。なお「徐紹禎」の表記は誤りである。
事績
[編集]清末の活動
[編集]地方官僚の家庭に生まれる。幼い頃から学問に親しんだが、後に実学・軍事学への関心も示した。1894年(光緒20年)、甲午科挙人となる。以後、両広藩署幕僚、江蘇省候補道員を歴任した。
その後、日本へ軍事の視察に赴き、1904年(光緒30年)、両江兵備処総弁となる。ここで新軍の訓練に責任を負った。翌年、江南新軍第9鎮が設立されると、徐紹楨が統制(師長に相当)に任じられている。さらに江南緑営総兵官や江北提督も兼任した。徐紹楨は当初立憲派の思想に近かったが、立憲が実現しない状況に失望し、次第に革命派に心を寄せるようになる。徐配下にも趙声・柏文蔚など革命派士官が多く、徐は彼らをよく庇護した。
1911年(宣統3年)、武昌起義が勃発する。徐紹楨は革命派に与し、江浙聯軍総司令に推戴された。11月、徐は江浙聯軍を率いて南京を攻撃し、清軍の統領王有宏を戦死させて南京を占領している。1912年(民国元年)1月、南京に中華民国臨時政府が成立すると、孫文から南京衛戍総督に任ぜられた。
民国での活動
[編集]袁世凱が臨時大総統となった後の同年4月、徐紹楨は北京政府中央において参謀総長に任命された。しかし徐は袁を嫌い、実際には就任しなかった。1914年(民国3年)6月、参政院参政となる。翌年6月、冊封外蒙古博克多哲布尊丹巴呼図克図専使に任ぜられ、同年に殖辺銀行を創業した。1917年(民国6年)、徐紹楨は孫文の護法運動に参加する。翌年3月、軍政府衛戍総司令代理に任ぜられ、さらに陸軍部練兵処督弁も兼任した。
1920年(民国9年)6月、徐紹楨は両広各路招討軍総司令に任命され、翌年5月には総統府参軍長に任ぜられている。1923年(民国12年)2月、広東省省長に任ぜられ、同年5月、大本営内政部部長に転じた。翌年1月、病を理由に内政部長を辞任する。1925年(民国14年)3月に孫文が死去すると、徐は北京に赴いて葬儀を手伝った。
これ以後、徐紹楨は事実上政界から引退し、主に上海で著述につとめた。国民政府時代に、一時的ながら国民政府委員にも任ぜられている。1936年(民国25年)9月13日、上海にて病没。享年76(満75歳)。
参考文献
[編集]- 徐亜玲「徐紹楨」『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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