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張文鑄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
張文鋳から転送)
張文鑄
今村俊三ほか『満洲国人傑紹介号』(1936年)
プロフィール
出生: 1899年光緒25年)
死去: 不詳
出身地: 清の旗 黒竜江省将軍管轄区布特哈総管管轄区(現在の訥河市
職業: 軍人
各種表記
繁体字 張文鑄
簡体字 张文铸
拼音 Zhāng Wénzhù
ラテン字 Chang Wen-chuh
和名表記: ちょう ぶんちゅう
発音転記: ジャン ウェンジュー
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張 文鑄(ちょう ぶんちゅう、繁体字: 張文鑄; 簡体字: 张文铸; 繁体字: 張文鑄; 拼音: Zhāng Wénzhù; ウェード式: Chang Wen-chuh)は、中華民国満州国の軍人。鼎元。布特哈総管管轄区(現在の黒竜江省訥河市)の人。

事績

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保定陸軍軍官学校第8期を卒業生[1]1923年民国12年)3月、陸軍軍官養成所騎兵区隊長となり、同年中に騎兵第12団少校団附、騎兵第4旅参謀長を兼任する。翌1924年(民国13年)7月に黒竜江省第2旅参軍官[2]となった。1925年(民国14年)2月に騎兵第5旅参謀長、9月に騎兵第4旅上校参謀長、12月に第8軍上校参謀と歴任している。1927年(民国16年)3月に第8軍軍部参謀処長となり、翌年4月には騎兵第17団団長、12月には歩兵第6団団長へと昇進・歴任した。1930年(民国19年)2月、騎兵第2団団長に転じている[3]

1931年(民国20年)9月の満州事変勃発後は関東軍に呼応し、馬占山討伐などに参画した[1]。同年11月、騎兵第1旅参謀長に任ぜられ、満州国建国後の1932年大同元年)4月1日に、黒竜江省警備司令部少将参謀長となっている。同年5月に第1支隊司令、7月に騎兵第1旅少将旅長と歴任し、9月1日に黒竜江省警備司令部少将司令官に就任した。翌1933年(大同2年)4月1日に中将司令官に昇進している[4]1934年康徳元年)7月21日に第3軍管区司令(管轄:チチハル)、1939年(康徳6年)に第7軍管区司令(管轄:ジャムス)、1942年(康徳9年)1月15日に第4軍管区司令(管轄:ハルピン)と歴任した[5]。同年9月に陸軍上将へ昇進[1]1944年(康徳11年)4月24日に吉興の後任として侍従武官長に任ぜられた[6]

満州国滅亡後、張文鑄は漢奸の罪に問われたとされるが、具体的な処分状況や没年等は不詳である[1]

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  1. ^ a b c d 王ほか主編(1996)、920頁。
  2. ^ 『大満洲帝国名鑑』「黒竜江省」、1頁による。王ほか主編(1996)、920頁は「参謀長」とする。
  3. ^ 以上の軍歴は『大満洲帝国名鑑』「黒竜江省」、1頁による。なお王ほか主編(1996)、920頁によれば、いずれも時期は不明だが、騎兵第6団団長、(黒竜江省?)督軍公署参謀長も歴任したとしている。
  4. ^ 『大満洲帝国名鑑』「黒竜江省」、1頁。
  5. ^ 郭主編(1990)、1865-66頁。
  6. ^ 郭主編(1990)、1766頁。

参考文献

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  • 『大満洲帝国名鑑』挙国社、1934年。 
  • 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7805074135 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4