廃帝 (北斉)
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(廃帝殷から転送)
廃帝 高殷 | |
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北斉 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 北斉 |
在位期間 |
天保10年10月19日 - 乾明元年8月3日 (559年12月4日 - 560年9月8日) |
都城 | 晋陽 |
姓・諱 | 高殷 |
字 | 正道 |
小字 | 道人 |
諡号 | 閔悼王 |
生年 | 武定3年(545年) |
没年 | 皇建2年(561年)9月 |
父 | 文宣帝 |
母 | 昭信皇后 |
年号 | 乾明 : 560年 |
廃帝(はいてい)は、北朝北斉の第2代皇帝。姓名は高 殷(こう いん)。文宣帝高洋の長男。
生涯
[編集]天保元年(550年)に北斉が建国されると、皇太子に立てられた。聡明で漢家の学問に通じたが、父の文宣帝には自分に似ていないとして疎まれた。天保9年(558年)、諸儒を集めて『孝経』を講義した。文宣帝が金鳳台に登ったとき、高殷に手ずから囚人を斬らせようとしたが、高殷は難色を示して斬らなかった。このことに激怒した文宣帝が高殷を鞭打つと、高殷は吃音となり、精神にも障害を負った。
天保10年(559年)10月に文宣帝が崩御すると、晋陽の宣徳殿で皇帝に即位した。楊愔・燕子献・宋欽道らの輔弼を受けた。11月、斛律金を左丞相、常山王高演を太傅、長広王高湛を太尉、段韶を司徒にそれぞれ任じた。乾明元年(560年)2月、高演を太師とし、高湛を大司馬に任じた。高演は詔と偽って楊愔や燕子献らを斬り、大丞相となって権力を握った。8月、太皇太后の令により高殷は廃位されて、済南王に降封された。
宗室
[編集]后妃
[編集]- 李難勝(李祖娥の姪)
- 鄭氏
伝記史料
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