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廬原臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
庵原臣から転送)
 
廬原臣
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
別名 臣足
主君 天智天皇
氏族 庵原氏廬原国造
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廬原臣(いおはらのおみ、生没年不詳)は、飛鳥時代豪族庵原氏廬原国造)の一人。で、臣足(おみたり)とも。

出自

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廬原氏」は駿河国廬原国造の国造一族で、『新撰姓氏録』右京皇別に「(吉備氏の分家である)笠朝臣同祖。(孝霊天皇の皇子である)稚武彦命之後也」とあって、その孫の吉備武彦景行天皇の命で東方に派遣され、廬原国を与えられた、とある。同族には角鹿国造国前国造がある。駿河国庵原郡、現在の静岡市清水区には三池平古墳、午王堂山三号墳、神明山一号墳、その西の葵区には谷津山古墳など大型の前方後方墳前方後円墳があり、廬原国造の有力な首長墓と考えられている。

記録

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日本書紀』巻第二十六によると、斉明天皇6年(660年)に

是歳(ことし)百済の為に、将に新羅を伐たむと欲(おもほ)して、乃ち駿河国に勅(みことのり)して船を造らしむ[1]

とあるので、この廬原臣と関係があると見られ、彼の一族が国造として率いる軍事動員の能力が期待されたことが窺われる。

『書紀』巻第二十七によると、天智天皇2年3月(663年)に、百済復興のためのの6人の将軍が率いる2万7千人の新羅征討軍団が到着した一方で[2]、百済王室内部では内紛が発生していた。大和政権の擁立した百済王、扶余豊璋は、重臣鬼室福信を謀叛の罪で処断し、その首を醢(すし=酢漬け)にした[3]

この有り様を知った新羅軍は好機と見て、百済の都、州柔城を奪おうとした。そのことを察した豊璋は、「日本国の救援の将軍、廬原君臣(いおはら の きみ おみ)が1万余りの軍団を率いて日本からやってくるので、私が自分で行って、白村(はくすき=錦江の河口)で出迎える」と諸将に言った[4]。敵軍は州柔城を取り囲み、の戦艦170艘が白村江に陣列を敷いた[5]。そして、日本の先に到着した船師(ふねいくさ)と大唐の船師とが衝突し、戦闘が始まったが、不利とみて、日本軍は退いた[6]。大唐の陣営は堅く、翌日、日本の諸将と百済の王は「気象」(あるかたち)を見ないまま、

「我等(われら)先を争はば、彼(かれ)(おの)づからに退くべし」

と何の戦略も立てずに、隊列の乱れた中軍を率いて突入していった。唐軍は左右から船をはさみとりかこんで攻撃し、日本・百済連合軍は惨敗した。

(みづ)に赴(おもぶ)きて溺れ死ぬる者衆(おほ)し。舳艫(へとも)廻旋(めぐら)すこと得ず。

といった状況の中で、朴市秦田来津(えち の はだ の たくつ)は敵兵数十人を道連れにして戦死し、百済王は船で高句麗へと亡命していった[7]

以上のような乱戦の中で、廬原君臣がどのようになったのかは、記述されていないため、分かっていない。

なお、廬原氏は 天武天皇13年(684年)の八色の姓制定当時には改姓しておらず、『続日本後紀』巻第四によると、平安時代承和2年(835年)10月に、遣唐訳語の廬原公有子(いおはら の きみ ありこ)が朝臣を賜姓されている[8]。同年2月には廬原公有守(いおはら の きみ ありもり)が遣唐訳語に任命されている[9]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』斉明天皇6年是歳条
  2. ^ 『日本書紀』天智天皇2年3月条
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇2年6月条
  4. ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月13日条
  5. ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月17日条
  6. ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月27日条
  7. ^ 『日本書紀』天智天皇2年8月28日条
  8. ^ 『続日本後紀』承和2年10月16日条
  9. ^ 『続日本後紀』承和2年2月2日条

参考文献

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  • 『日本書紀』(五)、岩波文庫、1994年 - 1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『続日本後紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、森田悌:訳、2010年
  • 『日本の歴史2 古代国家の成立』、直木孝次郎:著、中央公論社、1965年
  • 『日本の古代15 古代国家と日本』、岸俊男:編、中央公論社、1983年
  • 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年

関連項目

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