廣瀬貞文
表示
(広瀬貞文から転送)
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
廣瀬 濠田 | |
---|---|
生年月日 | 嘉永6年(1853年)9月 |
出生地 |
豊後国小中村 (現・大分県) |
没年月日 | 1914年4月15日(60歳没) |
死没地 | 大分県 |
出身校 | 慶應義塾本科 |
所属政党 | 国民協会 (日本 1892-1899) |
当選回数 | 5 |
在任期間 | 1892年 - 1902年 |
広瀬 貞文(ひろせ さだふみ、嘉永6年(1853年)9月 - 大正3年(1914年)4月15日)は、明治・大正期の官吏、法学者、儒学者。衆議院議員(5期)、国民協会所属。号は、濠田(ごうでん)。
経歴
[編集]家塾の咸宜園で漢学を修め、朝吹英二が証人となり、明治8年(1875年)慶應義塾本科に入学し、明治11年(1878年)に本科を卒業した。在学中から碩学の士とうたわれ、刑法、治罪法などの法律学を研究。千葉県属から司法省属、大審院書記を経て内務省に入る。帰郷して、大分県教英中学校長、埼玉県尋常師範学校漢文科教授嘱託、台湾総督府事務嘱託等を歴任し、明治40年(1907年)に日田町長(四代目)に就任。他、また上海商務印書館に入り法律書等の翻訳に従事した。
私塾・「咸宜園」の再興を目指し、明治18年(1885年)2月から明治20年(1887年)11月まで塾を主宰。明治15年(1882年)6月には「私立学校」として府知事あてに再び調書を提出(青邨は山梨滞留のため貞文名義)、そこでは名称が「東宜園」と改められた。
第2回衆議院議員総選挙にて国民協会の推薦を受けて、大分県四区より立候補して当選し、以来第6回まで代議士を務めた。
著書
[編集]- 『淡窓詩話』
参考文献
[編集]- 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 8代 廣瀬濠田(ひろせ・ごうでん) 史跡咸宜園跡 咸宜園ホームページ
- 廣瀬貞文