崔慶萬 (軍人)
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(崔慶萬から転送)
崔慶萬 | |
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生誕 |
1911年 日本統治下朝鮮咸鏡北道清津府 |
死没 |
2017年10月8日 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 |
満州国軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
上尉(満州国軍) 准将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立ソウル顕忠院第1忠魂堂3階320室93号 |
崔 慶萬(チェ・ギョンマン、최경만)は、満州国軍および大韓民国陸軍の軍人。創氏改名時の日本名は鶴原武雄[1]。
経歴
[編集]1911年、咸鏡北道清津に生まれる。鍾城中学校卒業[1]。
1937年9月、中央陸軍訓練処第5期卒業[1]。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第28団に勤務[1]。1938年9月、間島特設隊に配属[1]。歩兵第1連排長を務めた[2]。1940年7月1日、鶴原武雄に創氏改名[2]。1941年3月、歩兵中尉進級[1]。1943年3月1日、光明中学校配属将校[2]。同年5月、勲六位景雲章を受章[1]。
第2次世界大戦終戦時は第6軍管区歩兵第7団第2連上尉連長[1]。
1946年12月、警備士官学校第2期卒業、任少尉(軍番10198番)[1]。
1950年4月22日、陸軍本部高級副官(中領)[4][5][6]。
1950年10月16日、咸鏡北道地区戒厳民事部長(大領)[7]。
1951年5月15日、忠清北道地区兵事区司令官[8]。
1952年10月、慶尚南道地区兵事区司令官[9]。
1953年8月13日、全羅南道地区兵事区司令官[10]。
1954年6月10日、陸軍本部軍史監[11]。
1957年8月、教育総本部参謀部長[12]。
1959年6月、第2軍団副軍団長[13]。
准将で予備役編入後は東西石油化学顧問を務めた[1]。
2008年4月29日に民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典収録対象者軍部門に記載[14]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 681.
- ^ a b c 飯倉 2021, p. 146.
- ^ 佐々木 1983, p. 162.
- ^ “호국전몰용사공훈록 제5권(창군기)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 593. 2021年8月28日閲覧。
- ^ “國防部(국방부) 人事異動(인사이동)” (朝鮮語). 부산일보. (1950年4月23日) 2021年6月22日閲覧。
- ^ 박동찬 2014, p. 101.
- ^ 軍史研究所 2002, p. 171.
- ^ 兵務庁 1986, p. 805.
- ^ “連続刊行物 東亜日報「慶南兵事區 司令官에 崔慶萬大領」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2021年5月24日閲覧。
- ^ 兵務庁 1986, p. 807.
- ^ 陸軍本部 1956, p. 307.
- ^ “政府人事” (朝鮮語). 부산일보. (1957年8月1日) 2021年6月22日閲覧。
- ^ “政府人事” (朝鮮語). 부산일보. (1959年6月3日) 2021年6月22日閲覧。
- ^ “[명단] 친일인명사전 수록 대상자 4776명” (朝鮮語). オーマイニュース. (2008年4月29日) 2021年5月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』(第4刷)原書房、1983年。ISBN 4-562-00798-2。
- 飯倉江里衣『満州国軍朝鮮人の植民地解放前後史 日本植民地下の軍事経験と韓国軍への連続性』有志舎、2021年。ISBN 978-4-908672-47-7。
- 陸軍本部 編纂 (1956). 六・二五事變 後方戰史(人事篇). 陸軍本部軍史監室
- 兵務廳 (1986). 兵務行政史 上巻. 兵務廳
- 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 3. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-05-6
- 박동찬 (2014) (PDF). 통계로 본 6·25전쟁. 국방부 군사편찬연구소. ISBN 979-11-5598-010-1
軍職 | ||
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先代 黄憲親 崔徳新 |
大韓民国陸軍本部高級副官 第3代:1950.4.22 - 1950.9.13 第5代:1950.9.25 - 1950.10.14 |
次代 崔徳新 呉徳俊 |