山中源左衛門
表示
(山中重之から転送)
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 生年月日不詳 |
死没 | 1645年12月25日(正保2年11月8日) |
改名 | 重之 |
幕府 | 江戸幕府 大御番旗本 |
主君 | 徳川秀忠 |
山中 源左衛門(やまなか げんざえもん、生年不詳 - 1645年12月25日)は、江戸時代前期(17世紀)に実在した日本の武士、旗本である[1][2]。本名重之[3]。
人物・来歴
[編集]生年月日・生地ともに不詳であるが[1][2]、『寛政重修諸家譜』(1812年)にも『徳川実紀』(1849年)にもその名が記述されている、実在の人物である[3]。
『寛政重修諸家譜』によれば、1622年(元和8年)に初めて、第2代征夷大将軍の徳川秀忠に拝謁し、200俵を賜る大御番旗本となったという[3]。その後、小普請奉行に任命される[3]。
嫌がらせが好きな性分で、人の嫌がることをしては悦に入ったという[2]。大田南畝によれば、500石の大御番旗本から、旗本奴に転じた人物である[1][2]。前歯が欠けており、銀製の義歯をしていたとされる[4]。
1645年12月(正保2年11月)、病気と称して任務を果たさず、江戸市中で無頼の行為を行っていることが発覚した[3]。杉浦内蔵允正友(杉浦正友)に預けられたが、切腹を申し付けられ、同年同月25日(同年同月8日)、麹町の真法寺で切腹によって死去した[1][2][3]。辞世の句は「わんざくれ 踏んぞるべいか 今日ばかり 翌日は烏が 掻ッ咬じるべい」というもので、べらんめえ調の「六方詞」で詠まれた[1][2]。のちに塚原渋柿園が描いた『山中源左衛門』では、享年21(満20歳)とされているが[5]、『寛政重修諸家譜』の記述からすれば、それよりも年長であるとみられる[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『山中源左衛門』、塚原渋柿園、春陽堂、1894年1月
- 『山中源左衛門』、『渋柿集 下』所収、塚原渋柿園、春陽堂、1912年、p.551-757.
- 『明治歴史小説論叢』、三瓶達司、新典社、1987年1月 ISBN 4787940198