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式乾門院御匣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安嘉門院三条から転送)

式乾門院御匣(しきけんもんいんのみくしげ、生没年不詳[* 1])は、鎌倉時代歌人・官僚。女房三十六歌仙の一人。太政大臣久我通光の娘。安嘉門院三条とも呼ばれた[* 2]。また、如月の法名で呼ばれ、嘉元2年(1304年)に没した通光の娘と同一人物とも言われる[1]。日記文学『とはずがたり』の作者兼主人公である後深草院二条は、二条自身の主張する系図によれば式乾門院御匣の姪にあたることになる。

生涯

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式乾門院(利子内親王)に出仕し、安貞2年(1228年)にその斎宮としての伊勢群行に同行[2]。斎宮退下後も北白河院で出仕を続けていたと思われる。建長3年(1251年)に式乾門院が没した後は、その妹である安嘉門院(邦子内親王)に出仕した。同じ主家に出仕していた阿仏尼(安嘉門院四条)との交流も知られる。『続後撰和歌集』以降の勅撰集歌合等に作品を残している。弘安6年(1283年)、安嘉門院の四十九日にあたって藤原為信との歌の贈答があり、出家していたようである。

                     従三位為信
けふはいかに涙ふりにし宮のうちも さらに時雨て袖ぬらすらん
  返し                式乾門院御匣
涙のみいとゝふりそふ時雨には ほすひまもなき墨染の袖

— 『玉葉和歌集』 巻第十七 雑歌四

一方で、同じ『玉葉和歌集』 に御匣の死を悼んだ歌[3]も見られる。

逸話

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  • 安嘉門院への宮仕えで御匣の同僚であった阿仏尼は、弘安2年(1279年)に鎌倉に到着してから京の知人達と手紙のやり取りを頻繁に行うが、この頃、御匣のことを、

式乾門院の御匣殿ときこゆるは、久我の太政大臣の御女、これも続後撰よりうちつづき二たび三たびの集にも、家々の打聞きにも、歌あまた入り給へる人なれば、御名も隠れなくこそは。今は安嘉門院に御方とて侍ひ給ふ。

— 『十六夜日記
と書いており、御匣が有力な歌人と見なされていたこと[* 3]、安嘉門院では「御方」と呼ばれて重きをなしていたこと[4]が読み取れる。

作品

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勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
続後撰和歌集 式乾門院御匣  2 続古今和歌集 式乾門院御匣  7 続拾遺和歌集 式乾門院御匣 10
新後撰和歌集 式乾門院御匣  8 玉葉和歌集 式乾門院御匣  3 続千載和歌集 式乾門院御匣  5
続後拾遺和歌集 式乾門院御匣  3 風雅和歌集 新千載和歌集 式乾門院御匣  2
新拾遺和歌集 式乾門院御匣  4 新後拾遺和歌集 式乾門院御匣  1 新続古今和歌集 式乾門院御匣  5
定数歌歌合
名称 時期 作者名表記 備考
住吉社歌合 弘長3年(1263年 安嘉門院三条
玉津島歌合 弘長3年(1263年 安嘉門院三条
八月十五夜歌合 文永2年(1265年
弘安百首 弘安元年(1278年
私撰集
  • 『現存和歌六帖』 建長元年(1249年
私家集
  • 家集は伝存しない。

脚注

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注釈

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  1. ^ 生年には1216年以前説(安田(参考文献))と、1220年前後説(井上(参考文献))がある。また没年は、弘安6年(1283年)以後、正和元年(1312年)以前とされる。
  2. ^ 上臈の御匣が名乗る女房名には相応しくないとする異論がある(井上(参考文献))。特定の歌合の場でのみ用いた隠名とする見方もある(安田(参考文献))。
  3. ^ 阿仏尼を歌人として高く評価したのは、主としてその没後に編纂された『玉葉和歌集』『風雅和歌集』のような反二条派系の勅撰集だが、生前の勅撰集入集歌は御匣の方が多い。御匣は『玉葉和歌集』では3首、『風雅和歌集』には全く採られておらず、この点でも阿仏尼と対照的である。

出典

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  1. ^ 安田(参考文献)
  2. ^ 『続古今和歌集』 巻第十 羇旅歌
  3. ^ 『玉葉和歌集』 巻第十七 雑歌四
  4. ^ 『十六夜日記』

参考文献

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