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姫路空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姫路大空襲から転送)

姫路空襲(ひめじくうしゅう)とは、大東亜戦争末期の1945年6月22日7月3日深夜から7月4日未明にかけて兵庫県姫路市が受けた2度の空襲のこと。

空襲から守るために黒い網を掛けられた姫路城

6月22日の姫路空襲

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1945年6月22日9時50分ごろ、B-29爆撃機約60機が飛来し、播但線京口駅西にあった川西航空機姫路製作所を中心に約1時間爆撃を続けた。爆撃の目的地である製作所は全壊したほか、周辺の民家や道路、上下水道なども甚大な被害を受けた。製作所にいた徴用や学徒動員、社員など多くの従業員や周辺住民を含めた人的被害は、死者341人、被災者10220人[1]

アメリカ軍の作戦任務報告書による6月22日の爆撃データ

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  • ミッション217
  • 爆撃日時:1945年6月22日午前9時46分から同10時37分(日本時間)
  • B-29爆撃機数:52機

姫路大空襲

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1947年(昭和22年)11月1日の兵庫県姫路市中心部
姫路空襲(1945年(昭和20年))から2年後、1947年(昭和22年)11月1日の兵庫県姫路市中心部。右側(東側)の空き地は1945年6月22日の爆撃で壊滅した川西航空機姫路工場跡地。姫路市街地は1945年7月3日の空襲からの復興途上。画面中央右寄りに縦(南北方向)に空襲を免れた建物の屋根が濃く見える。

1945年7月3日16時23分(日本時間)、マリアナ諸島グアムサイパンテニアンの3島4基地から、徳島高松高知、そして姫路への爆撃のため501機のB-29が出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。同日深夜11時50分から翌未明1時29分にかけて[2]、姫路城南東を中心照準点とする半径4,000フィート(約1,200m)が目標とされ[3]、姫路市街地全域に焼夷弾が降り注いだ。火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと拡大、町は火の海と化し、特に内町と呼ばれた市街中心部(現:姫路市立白鷺小中学校区、姫路市立城東小学校区西部)はほぼ壊滅した。内町の周囲や工場が多数置かれていた姫路駅南側、さらにこれらから離れた地域も含め、総戸数・総人口の各約40%が被災した。当時は飾磨市であった飾磨でも一部が被災した[4]

死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人[5]

姫路城も爆撃対象から外されることは無かったものの、天守に命中した焼夷弾が発火せずに焼失を免れ、その姿に勇気づけられた被災者もいたようである[6]

当時姫路駅南西の南畝町に居住し、写真などの郷土資料を収集した「高橋秀吉コレクション」(現在は兵庫県立歴史博物館収蔵)を残した郷土史研究家・高橋秀吉[7]は以下のように記す。

その夜遂に我が姫路も焼かれる空襲となった。(中略)(引用者注:勤め先の)寮に着く前に投弾のひびきひどく、市街の東方、市川辺に火の手が上がる。遂に来た。姫路の最後、我が家も本当におさらばとなった。(中略) 見かえると次々と弾は市中に的確となり、落下の度に気味悪い雨のドシャ降りのような音をたて、爆発すればぱっと光って、ヒルよりも明るくなる。(中略)市の中心部はすでに火の海。(中略)見上ぐる空には機影もハッキリ見える。(中略)(引用者注:焼夷弾の子弾が)すぐ目の前にプスッと落ちてパアッと火の花が四方に飛び、私の頭上をとびこえる。(中略)そのうちに、だんだん爆音も遠ざかり、やっと(引用者注:空襲警報が)解除となり、(引用者注:防空壕から)はい出てみると、姫路の空は家々のもえ上がる炎が映って、気味わるいほどである。とうとう姫路も焼かれてしまった。
高橋秀吉、『姫路の罹災』昭和20年7月3日の日記より、[8]

アメリカ軍の作戦任務報告書による姫路大空襲の爆撃データ

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  • ミッション249
  • 爆撃日時:1945年7月3日午後11時50分から翌日午前1時29分(日本時間)
  • 爆撃部隊:アメリカ陸軍航空軍、第21爆撃集団所属、第313爆撃団
  • B-29爆撃機数:106機
  • 投下した焼夷弾の種類、量
    • E46 546.6米トン
    • AN-M47A2 220.5米トン
    • 計 767.1米トン


関連項目

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脚注

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  1. ^ 姫路市役所 1960, p. 11.
  2. ^ 姫路市 2002, p. 814.
  3. ^ 姫路市 2002, p. 817.
  4. ^ 姫路市 2016, p. 2-4.
  5. ^ 姫路市役所 1960, p. 11-12.
  6. ^ 中元 2001, p. 304-305.
  7. ^ コレクション紹介”. 兵庫県立歴史博物館. 2024年2月19日閲覧。
  8. ^ 高橋 1973, p. 83-85.

参考文献

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外部リンク

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