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天童女子高校生刺殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天童女子高校生刺殺事件
場所 日本の旗 日本山形県天童市
日付 1982年5月8日
午前零時ごろ
概要 ホテル元従業員が経営者やその妻を逆恨みし、経営者の娘を刺殺。
攻撃手段 被害者の自室で抵抗する被害者を出刃包丁で刺した。
攻撃側人数 1名
武器 出刃包丁(刃渡り12センチ)
死亡者 1名
被害者 ホテル経営者の三女(16歳)
犯人 ホテル元従業員(31歳)
容疑 殺人、住居侵入
動機 逆恨み
対処 犯人が天童警察署に出頭。署員が現場を確認し緊急逮捕。
刑事訴訟 山形地方裁判所で懲役18年の判決。
管轄 山形県天童警察署
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天童女子高校生刺殺事件(てんどうじょしこうこうせいしさつじけん)とは 山形県天童市のホテル元従業員が勤務態度を注意されたことや退職時のトラブルなどで経営者や経営者の妻を逆恨みして、1982年昭和57年5月8日午前零時頃ホテルに侵入し、経営者三女の女子高生を刺殺した殺人事件

事件概要

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1982年5月8日午前零時頃、天童市のホテルで、同経営者(45歳)の三女(16歳)が、元従業員(31歳)に胸などを出刃包丁で刺され死亡した。元従業員は間もなく天童警察署に出頭し、殺人容疑で逮捕された[1][2][3]。元従業員は同ホテルで働いていたとき、経営者の妻(42歳)に差別されたと邪推し、さらに退職時のトラブルも重なり逆恨みをしていた。その恨みを晴らすために娘を殺害しようとホテルに侵入し、自室で寝ていた三女の髪を引っ張って起こしたうえで胸などを包丁で刺して殺害した[4][5][6]

山形地裁は「犯行動機は犯人の性格異常に起因する一方的な逆恨みであり、自己中心的で冷酷な犯行」とし、1983年4月26日、懲役18年の実刑を言い渡した[7][8][9]。(年齢は事件当時)

加害者

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犯人のAは子供の頃にはおとなしく目立たない子供で、父親によれば、Aは内向的であきやすいところがあった。中学卒業後、東京の鉄工所に就職したが、数年で辞め、その後は喫茶店店員、静岡県内で解体作業員、天童で父親の農機具販売手伝いなど数年の間で四,五回仕事を変えていた[5][10][11]

またAにはホテルに就職するまでに放火未遂[注釈 1]、強盗致傷[注釈 2]、窃盗など3件の犯歴があり、1981年7月まで服役していた[注釈 3]。これまでの3回の犯歴において、Aは精神病質と判断されていた[14]

事件の背景

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ホテルHの経営者Iは、妻のJ子と娘3人の5人家族。従業員は14人。長女と次女は県外に進学して家を出ており、事件当時は両親と三女K子の3人暮らし。K子は県内の女子高校に通う高校二年生だった[5][15]

1982年3月にAは天童市役所職業相談室を訪れ、ホテルHでの求人をみつけて就職を希望[15]。提出書類に前歴の記載はなく、Aが地元の人間でもあったことから、すぐに採用が決まり、3月29日から働き始めた[4][15]

Aの勤務は午前8時から午後10時まで。店番、ホテル内の案内や掃除などが主な仕事。しかしAは態度がはっきりせず、また頼まれた仕事を忘れるなど勤務状況が悪く、そのことを再三注意されていた。そのうちにAは曲解、邪推を重ねて、J子からバカにされ差別をされている、と思い込むようになった[5][15]

同年4月28日にAの勤務態度が悪いことから、IがAに解雇通告をしたところ、給料の支払いについてトラブルになり、Aは逆上してホテル調理場から包丁を持ち出し、ガラスを割るなどして暴れた[4]。この件でAは銃刀法違反で天童署に取り調べを受けた。Aはその日限りで退職したが、給料は後で受け取った。

それまでJ子に差別されていると思い込んでいたAは、退職時のトラブルもJ子のせいであると決めつけ、J子に殺意を抱き殺害を計画するに至った[4][6][15]

事件

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Aは1982年5月7日深夜、J子を殺害しようとホテルに行ったが、Iと一緒にいるので、気付かれるかもしれないと思った。「娘は部屋に一人でいるので確実に殺せる。一番大事にしている娘を殺せば苦しむだろう」と、一人でいるK子を殺して恨みを晴らそうと気が変わった[7][16]

8日午前零時頃、ホテル西側の鍵のかかっていない勝手口から入り、人がいないことを確認すると、調理場から凶器の出刃包丁を持ち出した。調理場向かいのK子の部屋に侵入し、寝ていたK子の髪の毛を掴んで起こすと、抵抗するK子の胸を狙いメッタ刺しにして殺害した[17]

K子を殺害後、Aは逃走しようと考えたが、同じ時間帯に発生していた自動車盗難のために緊急配備されていたパトカーを見て、自分を追っていると勘違いをして、逃げ切れないとあきらめ、8日午前4時35分頃、天童署に出頭した。署員が現場を確認し、8日午前5時過ぎにAは殺人容疑で逮捕された[注釈 4]

裁判

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1982年5月29日、山形地検はAを住居侵入、殺人罪で山形地裁に起訴した[6]。同年6月30日、山形地裁刑事部でAの初公判が開かれ、Aは起訴内容を認めた[注釈 5]

1983年3月1日、論告求刑公判で検察側は「差別されたと思い込んで恨みを重ねていたが、そのような事実はなかった[注釈 6]。退職時のトラブルを含め、それらは異常性格に起因する一方的な逆恨みによるもので[注釈 7]、弁護側の主張は精神鑑定結果からも受け入れられず[注釈 8]、責任能力はある[注釈 9]」「犯行は胸部を狙って執拗に刺すなど、用意周到で計画的。公判中に、まだ仕返しは終わっていないと述べたこと、過去に複数回の実刑を受けていることも合わせ、更正の余地がなく、再犯の危険性もある」と無期懲役を求刑した[24][注釈 10]

Aへの判決公判は1983年4月26日に開かれた。裁判長は「犯行は曲解によるもので、精神的な障害はなかった」「自己中心的で冷酷、非情な犯行。殺意も確定的で人命に対する敬服の気持ちはなく、その反社会的人格は非難されるべき。刑事責任は重大で無期懲役もやむなし」としたが、自首している点、妄想による犯行だった点、それが生活歴や生活環境に起因している点を総合し、さらに累犯加重で懲役十八年の刑を言い渡した[8][9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1972年6月14日午後6時半頃、Aは自宅の室内で布団に紙くずをまいて放火し逃走。家人がすぐに消し止めたが、布団や障子の一部を焦がした。Aは友人に付き添われて自首。放火未遂容疑で逮捕された。動機として、いつも妹ばかりをかわいがっている親に嫌がらせをするために、発作的に放火したと供述(懲役8ヶ月、執行猶予2年)[12]
  2. ^ 執行猶予期間中の1972年11月30日午前4時頃、埼玉県川口市のアパートC方に侵入し台所の包丁を持ちだしたところ、気付いた妻のDが大声をだし、それに気付いたCや近所のEに取り押さえられ、駆けつけた警察官に強盗致傷の現行犯で逮捕された(懲役5年)[13]
  3. ^ 出所から約2年8か月後の1980年7月に、天童市内で起こした窃盗容疑で逮捕された(懲役1年)[4]
  4. ^ 1982年5月8日午前4時35分頃、天童署に入ったAが返り血を浴びた状態で「人を殺した」と供述したことを受けて、署員が急行しホテル内を調べると、自室のベッド上で白いトレーナーにジーパン姿のK子が仰向けになり、左胸に包丁(全長24.5センチ、刃渡り12センチ、刃幅4センチ)を刺されたまま血まみれで死亡していた。現場の部屋は電灯がつき、本棚が倒れるなど、二人がもみ合った跡があった。K子は普段の就寝時と同じ服装で、着衣に乱れはなかった[1]司法解剖の結果、K子の体には左胸、首や肩のほか、腕の防御創など十数カ所に刺し傷があった。左胸に刺された包丁は心臓に達し、死因は失血死で即死の状態だった[4]
  5. ^ 冒頭陳述で検察側は「犯行動機は食事の内容などで他の従業員と差別されていると邪推したことなどによる一方的な逆恨みである」「Aは、K子が抵抗して暴れたほうが自分の気持ちが高ぶり殺しやすいと思い、熟睡していたK子の髪を引っ張って目を覚まさせてから殺害した」と明らかにした[17][18]
  6. ^ 1982年7月21日に開かれた第二回公判で、J子、ホテル従業員、調理師の3人に対する証人質問が行われた。J子は「Aが刑務所に入っていたことは事件が起きるまで知らなかった。差別したことはなく、陰口も言っていない。それらは一方的な思い込みで、逆恨みである」と証言[19][20]
  7. ^ 1982年9月6日の第三回公判で弁護側の質問に対し、Aは「食事で差別をされた。仕事が出来ないと陰口を言われた。お客のチップをねこばばしたと泥棒扱いされた。勤め始めてから10日目ごろから不満を持ち始めていた」「(K子殺害の)理由は特にない。J子たちが困ればよかった。J子は前回公判で、差別していないと嘘をついた。仕返しはまだ終わっていない」と供述。弁護側は陳述に混乱があるとして精神鑑定を申請[21]
  8. ^ 1982年11月16日の第五回公判で、Aの精神鑑定を担当した医師が「性格異常はみられたが、物事の是非を判断する能力と行動をコントロールする能力はある」と、責任能力があったことを証言。物事を曲解し差別されていると思い込むようになったのは、精神分裂病(当時の表記)などに特有な妄想状態ではなく、前科に対する劣等感を背景とする性格異常であるとされた[7][22]
  9. ^ 1983年2月14日に開かれた第八回公判では、Aが拘置されている山形刑務所の嘱託医が「Aは他者に対し自分を常に被害者的立場に置き、軽蔑されていると思い込んでいる。これは知能の発育不全による接枝分裂病と同じような症状」と証言。弁護側はこれをもとに、検察側の「刑事責任を問える」との主張に反論。裁判所にAの再精神鑑定を申請したが、却下された[23]
  10. ^ 1983年3月16日に開かれた第十回公判で、弁護側は「Aはパラノイアで、犯行当時、責任能力は著しく損なわれていた」「被害妄想、曲解による動機で殺人におよぶのは通常の精神状態ではない」「犯行時に通常人がもつ緊張感や恐怖心を欠いていた」と述べ、心神耗弱を理由に減刑を求めた[25]

出典・参考資料

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  1. ^ a b 『山形新聞』1982年5月8日夕刊1頁「経営者の娘を刺殺・天童のホテル・元従業員、包丁で一突き・勤務状態注意され恨む」「深夜の寝室無言の凶刃・返り血を浴び出頭」
  2. ^ 『読売新聞』1982年年5月8日夕刊東京版11頁「解雇されて逆恨み・社長の娘を刺殺」
  3. ^ 『産経新聞』1982年5月8日夕刊東京版3頁「経営者の娘を刺殺・天童のホテル・元従業員が逆恨み」
  4. ^ a b c d e f 『山形新聞』1982年5月9日朝刊15頁「逆恨み・計画的犯行・娘狙えば親悲しむ・先月末からうかがう」
  5. ^ a b c d 『読売新聞』1982年5月9日朝刊山形版20頁「天童 逆恨み殺人 単純で残忍な凶行 出刃でベッド襲う 酒飲むと逆上するA 人手不足がアダ」
  6. ^ a b c 『山形新聞』1982年5月30日朝刊15頁「天童の女子高校生殺し・Aを起訴」
  7. ^ a b c 『河北新報』1982年12月27日朝刊山形版8頁「焦点82・消えぬ深い悲しみ・罪を感じない犯人A・天童の女子高生殺し・スポーツ好きの明るい少女は亡くなった」
  8. ^ a b 『山形新聞』1983年4月27日朝刊15頁「Aに懲役十八年・心神耗弱を退ける・天童女高生殺し」
  9. ^ a b 『山形県年鑑』昭和59年版, p.187
  10. ^ 『毎日新聞』1982年5月9日朝刊山形板16頁「ホテルの娘さん殺される・元従業員、逆恨みの包丁・殺されたなんて・驚き、悲しむ級友・天童の逆恨み殺人」
  11. ^ 『河北新報』1982年5月9日朝刊山形板10頁「経営者の娘を殺す・ホテルの元従業員、仕事で注意され恨む・温泉の町に大きな衝撃・あの明るい娘が・無惨な姿に泣き伏す母親・悲報広がる学園」
  12. ^ 『山形新聞』1972年6月15日夕刊5頁「親が偏愛と自宅に放火」
  13. ^ 『埼玉新聞』1972年12月1日朝刊7頁「あかつき強盗もみ合い逮捕」
  14. ^ 『山形新聞』1983年3月17日朝刊13頁「天童女子高生殺し・Aが最終の弁論」
  15. ^ a b c d e 『産経新聞』1982年5月9日朝刊山形版21頁「未明の惨劇・広がる衝撃・天童の女子高生殺し・退職時から殺意」
  16. ^ 『産経新聞』1982年5月10日朝刊山形版21頁「天童の女子高生殺し・娘を殺せば一番苦しむ・残忍な犯行を自供」
  17. ^ a b 『山形新聞』1982年7月1日朝刊15頁「天童の女子高生殺し初公判・A犯行を認める」
  18. ^ 『毎日新聞』1982年7月1日朝刊山形板18頁「起訴事実認める・ホテル経営者娘殺し初公判・残忍で計画的犯行」
  19. ^ 『山形新聞』1982年7月22日朝刊15頁「被害者の母親ら証人に立つ」
  20. ^ 『毎日新聞』1982年7月22日朝刊山形版18頁「食事の差別などしなかった・女高生殺人で母が証言」
  21. ^ 『山形新聞』1982年9月7日朝刊15頁「弁護側・Aの精神鑑定申請」
  22. ^ 『毎日新聞』1982年11月17日朝刊山形版16頁「経営者の三女刺殺・犯行当時責任能力あった・病院長証言」
  23. ^ 『毎日新聞』1983年2月15日朝刊山形版16頁「精神鑑定申請を却下・女高生殺し事実審理終了」
  24. ^ 『山形新聞』1983年3月2日朝刊13頁「Aに無期求刑・残虐、冷徹な犯行・天童の女高生刺殺事件」
  25. ^ 『読売新聞』1983年3月17日朝刊山形版16頁「心神耗弱を主張・女高生殺しの弁護側」

関連項目

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