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武蔵不破麻呂

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大部不破麻呂から転送)

武蔵 不破麻呂(むさし の ふわまろ、生没年不詳)は、奈良時代貴族氏姓丈部直のち武蔵宿禰官位従五位上左衛士員外佐

出自

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『続日本紀』によれば、神護景雲元年(767年)に丈部直不破麻呂が武蔵宿禰を賜り、武蔵国造に任じられたという[1]。後世の系図では、不破麻呂は足立郡司・大部直(おおとものあたい、大伴部直・大伴直に同じ)古麿の子ともされる[2]が、その系図の信憑性は問題があり信用ができない[3]

経歴

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武蔵国の人。

天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱の功績を賞する叙位に際して、不破麻呂は従五位下に叙せられる。のち武官を務めていることから、乱で武功を挙げたとされる。

のち近衛員外少将を経て、神護景雲元年(767年下総員外介を兼ね、まもなく不破麻呂を含む一族6名が丈部直から武蔵宿禰改姓し、さらに武蔵国造となった。神護景雲3年(769年)上総員外介に任ぜられ、称徳朝末の神護景雲3年(769年内位の従五位上に至る。

光仁朝宝亀4年(773年左衛士員外佐官職にあったが、主税助日置道形左京大進・尾張豊人らとともに大和国佐保川の修復を担当している。武蔵国造と左衛士佐との兼任について、肩書に武蔵国造とはあっても郡領は見あたらず、郡司は務めずに近衛員外少将や左衛士員外佐などの京官に終始したらしい。租庸租税の収取を行うなど重要な在地職である郡司と京官とを兼任することは、困難だったとみられる[4]

更級日記』には、衛士として都に上り、皇女とともに武蔵国に帰還し一国を宰領するまで出世したという竹芝の男の伝説が物語られているが、この主人公に不破麻呂の姿が色濃く反映されていると言われている。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

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「西角井系図」では丈部家刀自が娘にいたとされるが、森田悌はこれを否定しており、むしろ姉妹か姑であったと推察している[6]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 多摩市史編集委員会『多摩市史 通史編1』(多摩市、1997年)
  2. ^ 『埼玉叢書 第3巻』「西角井從五位物部忠正家系」
  3. ^ 北本市教育委員会『北本市史 通史編』「古代・中世 第3章 武士団の成立 第2節 平将門の乱と武蔵武芝[1]」(北本市教育委員会、1994年)
  4. ^ 森田悌『古代東国と大和政権』新人物往来社、1992年
  5. ^ 『大日本古文書(編年文書)』21巻280頁
  6. ^ 森田悌『古代東国と大和政権』(新人物往来社、1992年)

参考文献

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関連項目

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