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大山綱昌 (薩摩藩士)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大山彦八綱昌から転送)
 
大山 綱昌
時代 江戸時代末期
生誕 不詳
死没 安政3年10月5日1856年11月2日
改名 西郷小兵衛→大山綱昌
別名 通称:彦八
墓所 郡元墓地
幕府 江戸幕府
薩摩藩
氏族 西郷氏→大山氏
父母 父:西郷隆充、母:四本氏
養父:大山綱毅
兄弟 吉兵衛綱昌、他
競子(大山綱毅の長女)
成美、国子、誠之助
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大山 綱昌(おおやま つなまさ)は、江戸時代末期の薩摩藩鹿児島城下士。大山家に養子入りする前は西郷 小兵衛と称す。大山巌の父。西郷隆盛従道兄弟の叔父にあたる。

略歴

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薩摩藩鹿児島城下で誕生する。文化11年(1814年)8月28日に、実兄の西郷九郎(のちの西郷吉兵衛)とともに藩主・島津斉興に初御目見する。天保5年(1834年)8月20日、大山綱毅が江戸芝(現在の東京都)の薩摩藩邸で病死する。翌天保6年(1835年)6月19日、綱毅の婿養子となり、諱を綱昌、通称を彦八に改め、大山家の家督を相続する。天保13年(1842年)10月10日、次男の岩次郎(後の大山巌)が誕生する。安政3年(1856年)10月5日、鹿児島城下で死去した。

菩提寺曹洞宗松原山南林寺(明治初期に廃仏毀釈で廃寺)。墓所は南林寺墓地。のち大正年間に郡元墓地に改葬。

人物

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  • 養父は一代小番まで進んだが、「綱昌は出世の道を捨てて、生涯を砲術研究にゆだねる」という。ただし、研究していた砲術の流派や砲術師範になったかは不明。家格は御小姓与。家督は大山彦八成美が継ぐ。
  • とにかく砲術が好きだったらしく、安政3年の臨終の際、家人に「余の命日には、何等の供物は要しない。唯、墓前に煙硝を焚いて呉れればよい。」と遺言したという。家人は綱昌の墓碑に鉄砲の圖を刻んだという。

宅地

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「鹿児島城下絵図散歩」では、現在の鹿児島市加治屋町4番地の東に大山彦八宅地と宅地の添え地があった。広さは天保13年当時、宅地と添え地あわせて368ほどで、宅地は186坪、添え地は182坪。(現在、宅地は実践会館になり、添え地のほうに大山巌誕生碑あり)。「元帥公爵 大山巌」での、元薩摩藩士で加治屋町出身である埼玉県知事吉田清英の談話で「大山さん(大山彦八家)の家は(加治屋町の下級城下士の)貧乏屋敷の中では少し広いほうだった」といっていた。なお、天保13年の、実家の西郷竜右衛門宅地(現在の加治屋町5番地、西郷隆盛誕生碑あり)は259坪、東郷吉左衛門(東郷平八郎の父)宅地(現在の加治屋町10番地、鹿児島中央高校の敷地内)は267坪(なお、番地は2003年現在)。

家族・親族

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参考文献

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  • 尾野実信「元帥公爵 大山巌」 鹿児島県立図書館
  • 宮下満郎「西郷家系図の紹介」(「敬天愛人」第23刷、西郷南州顕彰会著)、鹿児島県立図書館蔵
  • 塩満郁夫、友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』高城書房、2004年12月1日初版