渡辺渡 (冶金学者)
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(堀江恭一から転送)
渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9月15日) - 大正8年(1919年)6月29日[1])は、日本の冶金学者。
人物・生涯
[編集]長崎県出身。大学南校を経て、1879年(明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ[2]。1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。しかし翌年に再び工科大学教授に任命され、農商務省鉱山局長を兼ねた。1899年(明治32年)、局長を辞し欧米に出張した。1902年(明治35年)から工科大学長を務めた。墓所は染井霊園。
親族
[編集]- 父・渡辺真 - 東京府平民[3]
- 妻・すみ - 台北賓館、台湾神宮などを手掛けた建築家福田東吾(1855年-1917年)の妹[3]
- 長女・つな(1880年生) - 横堀治三郎の妻[3]
- 二女・禄(1882年生) - 加茂正雄の妻[4]
- 長男・渡辺仁(1887年生) - 東京帝大建築科卒。建築家。岳父に菊池武夫 (法律家)。[5]
- 三女・義乃(1890年生) - 古宇田實の妻[6]
- 二男・礼(1894年生) - 法学士
- 四女・智聰子(1897年生)
- 五女・信夫(1899-1970) - 医師・堀江恭一(1889-1962)の妻[7]。婚家の堀江家は天正年間より中野郷(現・東京都中野区)の名主を務めた旧家で、恭一の父・堀江悦之助は地主で銀行家[8]。継母の松江は石坂泰三の姉[7]。弟の堀江重賢は日本ステンレス副社長、住友金属工業常務取締役[9][10]。妹の秀子は日比谷平左衛門の孫・平次郎に嫁いだ[11]。信夫・恭一夫妻には子がなく、屋敷の半分を中野バプティスト教会に売却し、信夫の遺言でもう半分を老人福祉センター設立のために中野区に寄附した[9]。
- 三男・渡辺誠(1903年生) - 商工省鉱山局技師
脚注
[編集]- ^ 『官報』第2072号、大正8年7月2日。
- ^ 20世紀日本人名事典『渡辺 渡』 - コトバンク
- ^ a b c 渡辺渡『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』加茂正雄
- ^ 渡辺仁『人事興信録』第13版(昭和16年) 下
- ^ 『人事興信録. 第13版(昭和16年) 下』渡辺仁
- ^ a b 堀江恭一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『東京府豊多摩』豊多摩郡、1916年、p387
- ^ a b 中野区の敬老館から「堀江」の名が消えた顛末 (2022年6月)中野非公式リポート
- ^ 役員住友金属工業(株)『住友金属工業最近十年史 : 創業七十周年記念』(1967.06)
- ^ 日比谷孝太郎『人事興信録 第11版下』1937
参考文献
[編集]- 「東京帝国大学工科大学教授渡辺渡叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112853200