古賀清志
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(古賀不二人から転送)
古賀清志(古賀不二人) | |
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生誕 |
1908年4月10日 日本 長崎県佐世保市 |
死没 | 1997年11月23日(89歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1928年 - 1932年 |
最終階級 | 海軍中尉 |
除隊後 | 不二流体術を創始 |
古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日[1][2] - 1997年〈平成9年〉11月23日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱罪[2]で有罪となった海軍中尉である。戦後、不二人と改名し、不二流体術を創始。
生涯
[編集]長崎県佐世保市で生まれ、佐賀県佐賀市で育つ。佐賀中学を経て、1928年、海軍兵学校56期卒。 王師会会員となる[3]。
1931年(昭和6年)12月、霞ケ浦海軍飛行学生、海軍中尉となる[2]。
1932年(昭和7年)五・一五事件では牧野伸顕邸や警視庁を襲撃。
事件後、横須賀鎮守府軍法会議で反乱幇助罪に問われ、禁錮15年の刑を受け失官。小菅刑務所に服役する。これにより従七位を失位[4]、大礼記念章(昭和)を褫奪された[5]。服役中に紀元節、憲法発布五十周年祝典の恩赦を受けて減刑、1938年(昭和13年)7月4日に同じ海軍の事件関係者である三上卓、黒岩勇とともに仮釈放[6]。 その後は、中国華北青島の海軍特務部新民会などに勤務。
1955年(昭和30年)3月6日、不二流体術を創始。
1997年(平成9年)11月23日に死去。
著書
[編集]- 古賀不二人『私の歩道 : 五・一五反乱将校の鎮魂譜』(島津書房 1986年)
出典
[編集]- ^ 古賀不二人『私の歩道』13頁、16頁
- ^ a b c 秦郁彦『日本陸海軍総合事典』「主要陸海軍人の履歴 古賀清志」
- ^ 秦郁彦『昭和史を縦走する』62頁
- ^ 官報 1934年1月26日 六二二頁
- ^ 官報 1934年1月31日 七四七頁
- ^ 古賀、三上、黒岩が最後に出所『東京朝日新聞』(昭和13年7月6日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年