日野資秀
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(北小路光典から転送)
日野資秀 ひの すけひで | |
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生年月日 | 1863年7月4日 |
出生地 |
日本 山城国京都 (現京都府京都市) |
没年月日 | 1903年11月24日(40歳没) |
前職 | 東宮侍従 |
称号 | 正三位 |
配偶者 |
日野斐子 日野つる |
親族 |
兄・柳原前光(元老院議長) 義兄・牧野伸顕(内大臣) 義兄・日高栄三郎(貴族院議員) 義兄弟・三島弥太郎(貴族院議員) |
在任期間 | 1900年11月8日 - 1903年11月24日 |
日野 資秀(ひの すけひで、1863年7月4日(文久3年5月19日[1])- 1903年(明治36年)11月24日[1][2])は、明治期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧名・柳原和麿[3]、北小路光典[4]。
経歴
[編集]山城国京都で柳原光愛と長谷川歌野の五男として生まれる[1][5]。1875年(明治8年)北小路随光の養子となり光典(みつのり)と改名[4][6]。1883年(明治16年)10月17日、養子縁組を解消し[4]、同年10月27日、隠居した日野資貴(宗瑞)の相続人となり、同年12月、資貴の父資宗の死跡相続者となる[1][5]。1884年(明治17年)7月7日、伯爵を叙爵した[7]。
1880年(明治13年)明宮(大正天皇)[注 1]出仕となり、同祗候、同御用掛を歴任[2][5]。1888年(明治21年)から1893年までイギリスに留学(宮内省留学生)[2][5][6][8]。帰国後、東宮職御用掛、東宮侍従を務めた[2][5][6]。
1900年(明治33年)11月8日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し[9][10]、死去するまで在任した[2][11]。墓所は青山霊園。
栄典
[編集]親族
[編集]- 先妻 日野斐子(養父・資宗二女)[1]
- 後妻 日野つる(三島通庸四女)[1]
- 長男 日野資謙(伯爵)[1]
- 二女 伊集院清子(伊集院松治夫人)[1]
- 三女 日野花子(日野捷郎(養孫・実吉安純六男)夫人)[1]。捷郎は資謙の後を継いで伯爵を襲爵。
- 兄 柳原前光(元老院議長)[3]
- 姉 柳原愛子(大正天皇生母)[3]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 姉・柳原愛子が大正天皇の生母のため叔父に当る。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成 下巻』410頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』28頁。
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成 下巻』761頁。
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成 上巻』491頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録〔初版〕』1090-1091頁。
- ^ a b c 『明治過去帳』699頁。
- ^ 『官報』第307号、明治17年7月8日。
- ^ 「留学生日野資秀留学延期之件」
- ^ 『官報』第5208号、明治33年11月9日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、12頁。
- ^ 『官報』第6120号「叙任及辞令」1903年11月25日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録〔初版〕』人事興信所、1903年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上下巻』霞会館、1996年。
- 外務省「留学生日野資秀留学延期之件 明治二十六年」 アジア歴史資料センター Ref.B16080845100
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 日野家初代 1884年 - 1903年 |
次代 日野資謙 |