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利用者:Buzin Satuma Hayato/サンドボックス/下書き1

豊玉姫神社
所在地 鹿児島県南九州市知覧町郡16510
主祭神 豊玉姫命
豊玉毘古命
彦火々出命
豊玉毘売命
例祭 10月第2月曜日(体育の日
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豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)は鹿児島県南九州市知覧町にある神社

豊玉姫命を主祭神としていたが、幕末になって豊玉毘古命彦火々出命豊玉毘売命を祀るようになった[注釈 1][1]。宮司は豊玉姫命の従者の子孫であると伝える[要出典]

元々は知覧城の出城である「亀甲城」の麓に作られていたが、1610年慶長15年)に約1.5km西の現在地に遷座した[要出典]。元々は、開聞神宮の支社である[1]。旧名は、1327年元享4年)には、「開聞中宮大明神」、「中宮三所大明神」と言われていたが、江戸時代には一般的には「中宮大明神」、格式ばった言い方では「三所大明神」と言われていた[1]1867年5月慶応4年)に「中宮神社」に、1870年6月明治3年)に現在の名前に改称した[1]

宝物として30面の神舞面や歴代領主奉納の扁額などを所蔵する[要出典]

豊玉姫の道中

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開聞(かいもん)
妹の玉依姫と、ここから出発したとされる[2][3]
鬢水峠(びんすいとうげ、びんみっとうげ)
乱れたを、水で整えたとされる[2][3]
飯野(いいの)
豊玉姫と、玉依姫はここで昼食をとったとされる[2][3]
白水(しとみっ)
干飯にするを洗ったところ、白い水が出るようになったといわれる[2][3]
干原(ほしばい)
干飯を作ったところであるといわれる[3][4]
取違(とりちがい)
知覧を治めるのはもともと豊玉姫ではなく、玉依姫だったというのが通説である[1][2][3]。水田の豊富な川辺に、玉依姫が朝早くに馬に乗って行ってしまったため[2][3]、豊玉姫は、知覧を治めることになったと言われている[1][2][3]。この二人が治める場所を取り違えた場所は、現在「取違(とりちがい)」という集落名になっている。(正確には、南九州市知覧町西元地区上別府集落取違。)余談だが、同集落の公民館である取違公民館の近くで地元の氏神を祭っており、そこに名前の由来を書いた案内板がある。その案内板によれば、二人が治める土地を取り違えたため「取違」と呼ばれると書かれている。蛇足だが、地元ではトイタゲと呼ばれている[1]。また、取違集落には「取違」という名字の人が多い[2]

水からくり

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毎年7月9日から行われる「六月灯」[3]では、水車の動力によるからくり人形(水車からくり)が上演される[5]1780年安永9年)から始まったとされるが一時中断し、1979年昭和54年)から現在の形式で再開された[5]。神社前を流れる小川に水車を設け、その上にある屋台の上のからくり人形が水車の動力で動くという仕掛けである[5]。演目は毎年変わるが歴史上の有名人や神話がモチーフとされることが多い[5]。具体的には、「風林火山・川中島の合戦」(2007年)や、「那須与一」(2006年)などが上げられる[6]

国選択無形民俗文化財並びに、鹿児島県無形民俗文化財に選ばれている[3]

「ミュージアム知覧(南九州市立博物館)[7]」で、模型を見ることができる。

注釈

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  1. ^ 「川辺町風土記: 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて」では、玉依姫も祭られていると書かれている。30頁に記述。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 「鹿児島民俗:第114号」80頁
  2. ^ a b c d e f g h 「川辺町風土記: 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて」29頁
  3. ^ a b c d e f g h i j 「鹿児島の暮らし方」93頁
  4. ^ 「川辺町風土記: 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて」29頁から30頁
  5. ^ a b c d 「鹿児島の暮らし方」92頁
  6. ^ 知覧町豊玉姫神社の水車からくり - 鹿児島の年中行事 - 2009年1月17日閲覧
  7. ^ 南九州市ホームページ内の紹介ページ

参考文献

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佐藤史生『川辺町風土記: 川辺・勝目の歴史、行事、祭り、暮らし、自然を訪ねて』図書出版 南方新社、2006年。ISBN 9784861240850 

青屋昌興『鹿児島の暮らし方』図書出版 南方新社、2002年。ISBN 9784931376755 

「鹿児島民俗」編集委員会編 『鹿児島民俗 第百拾四号』鹿児島民俗学会、1998年。ISSN 0912-2885。