九条教家
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(八条教家から転送)
時代 | 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 建久5年(1194年) |
死没 | 建長7年4月28日(1255年6月4日) |
改名 | 教家→観空→慈観(法名) |
別名 | 号:弘誓院 |
官位 | 正二位、大納言 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 九条家 |
父母 |
父:九条良経、母:一条能保の娘 養父:九条良輔 |
兄弟 |
立子、慶政、道家、教家、基家、良尊、道慶 養兄弟:良平 |
九条 教家(くじょう のりいえ)は、鎌倉時代前期の公卿・書家。太政大臣・九条良経の次男。九条良輔の養子。官位は大納言。なお、家名に関しては養父の良輔が八条院の養子になった経緯から、九条家とは別の八条家という別の家の存在を指摘する説もある[1]。
経歴
[編集]12歳で近衛中将となり、承元元年(1207年)11月29日には14歳で従三位に叙される。建暦元年(1211年)1月に中宮権大夫、建保2年(1214年)1月に中納言、同6年(1218年)1月に中宮大夫、12月に大納言に任じられる。また、書家としても優れ、弘誓院流を確立する。
嘉禄元年(1225年)9月3日に32歳で明恵を戒師として出家した。『公卿補任』によれば「菩提心」によるものとされているが、一説によれば養父・良輔の没後、九条家の実権を取り戻した教家の実兄・道家による追い落としの圧迫を受けたことに加え、良輔・教家親子の後見人的な存在であった慈円が危篤に陥り(9月26日死去)、将来を悲観したとする説もある(教家の出家により、道家の嫡男九条教実は上臈大納言となり、更に教家が任じられていた橘氏是定の地位を奪った)。なお、3日後には良輔・教家父子に仕えていた藤原光家(定家の子)もこれに倣って出家している。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 樋口健太郎「八条院領の伝領と八条良輔」(初出:『年報中世史研究』40号(2015年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3)
参考文献
[編集]- 五味文彦『明月記の史料学』(青史出版、2000年) ISBN 978-4-921145-08-8