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斡啜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
兀朮から転送)
斡啜(オジュ)
続柄 太祖阿骨打四男

全名 完顔宗弼
称号 忠烈王、梁王
出生 不詳
死去 皇統8年(1148年
配偶者 側室:趙円珠
子女 孛迭、寿康公主、習撚ほか
父親 太祖阿骨打
母親 元妃 烏古論氏
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斡啜(オジュ、生年不詳 - 皇統8年(1148年))は、皇族。女真名は兀朮(ウジュ)・烏珠(ウジュ)とも[1]。漢名は宗弼[1]。初代皇帝の太祖阿骨打(アクダ)の四男。

生涯

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元妃烏古論氏の子として生まれた。1125年に叔父の太宗呉乞買(ウキマイ)に従い、従兄の粘没喝(ネメガ、宗翰)と共に北宋の都の開封に攻め寄せて、徽宗欽宗父子をはじめとして、北宋の皇族・大臣らを捕虜として北方に連行した。

やがて、江南に逃れた康王趙構(高宗)が南宋を建国した。オジュは叔父の太宗の厳命で、長江を越えて追撃するが、深入りしすぎて引き揚げに苦労し、鎮江と揚州のあいだで宋将の韓世忠らの軍勢に敗退した[1][注釈 1]天会8年(1130年)、訛里朶(宗輔)の陝西平定戦に従軍するも、張浚の前に大敗する[注釈 2]。天会9年(1131年)、再び陝西攻略の作戦を起こし、これを攻略。天会15年(1137年)、甥の3代熙宗ホラにより、今までの功績で瀋王・右副元帥に封じられた。これによって、彼は金の軍事権を全面的に握った。天眷元年(1138年)、再び南宋に遠征し、岳飛韓世忠等と接敵しそうになるが、酷暑により両者軍を退いた。その後も、引き続き都元帥太保・領行台尚書省を歴任した。やがて政治家としての能力を認められて、尚書左丞相侍中に昇進し、異母兄の斡本(オベン、宗幹)と共に金の頂点として君臨した。天眷3年(1140年)、再度南宋に遠征し、今度は河南南部を奪回した。

皇統8年(1148年)に死去。熙宗によって、亡兄の斡本と同様に忠烈王諡号を贈られ、梁王に昇格した。

宗室

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妻妾

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子女

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  • 韓王 孛迭(亨)
  • 寿康公主 蒲剌
  • 習撚

その他、多数

脚注

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注釈

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  1. ^ 1130年の黄天蕩の戦い中国語版は有名で、韓世忠はオジュの渡河の道を常に遮って彼を難儀させた[1]。オジュは、漢人に教えられて韓世忠の船を焼き、ようやく難を逃れて帰還がかなった[1]
  2. ^ この頃は宋軍がかつてのような弱軍ではなく、強くなっていたので金人は以降、漢人をあまり軽侮することはなくなった[1]

出典

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参考文献

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  • 内藤湖南『中国近世史』岩波書店〈岩波文庫〉、2015年7月。ISBN 978-4-00-381171-9 

関連項目

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