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備前渠用水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
備前渠川から転送)
備前渠用水

深谷市江原地区(2012年8月)
延長 23km
灌漑面積 1400ha
取水 利根川
埼玉県本庄市山王堂地区)
合流 福川熊谷市
流域 本庄市
深谷市
熊谷市
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備前渠用水(びぜんきょようすい)は、埼玉県の北部を流れる埼玉県最古の農業用水路である。

利根川水系一級河川である。疏水百選にも選定され、かんがい施設遺産に登録されている。

概要

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現在は本庄市山王堂地区で利根川より取水し、深谷市熊谷市へ流れ、福川合流し利根川へと流れる。途中、御陣馬川や小山川と流路を共有する区間がある[1]。埼玉県北部では、親しみを込めて備前堀備前渠備前渠川とも呼ばれている。現在でも用水路には開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。総延長は約23キロメートル、最大通水量毎秒約9立方メートルであり、利根川の右岸一帯の約1400ヘクタール[2]の水田へ用水を供給している。

沿革

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  • 1604年慶長9年) - 江戸幕府の命令により、関東代官頭伊奈備前守忠次によって計画され[2]、20数キロメートルにわたり水路を開削し、備前堀と名づけた[1]。当時は正確な地図も無く、水路を開削する場所を幾度も歩いて調査し、夜には提灯を使い、土地の高さを測り、水が流れることを確かめたりもした。等で掘り、かるこ、もっこなどで土を運搬した。
  • その後、洪水烏川の流路が変わり、元(取水口)が壊滅する。
  • 1783年天明3年) - 浅間山天明大噴火により水路が埋没[1]。岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がった。それに伴い、現在の本庄市周辺では度々洪水となった。
  • 1793年寛政5年) - 烏川の河道の上昇に伴い、元圦の締め切り[1]。下流に水が来なくなり、水争いや裁判が行われた。
  • 1818年文政元年) - 用水が不足し年々米が不作となる。
  • 1828年(文政11年) - 漸く取り入れ口の復旧工事が開始される。その後43日間で通水する。取水口は利根川や烏川の乱流域に位置するため、その後二度も変更工事が実施されている。
  • 1930年昭和5年) - 1921年(大正10年)の大水害の発生に伴い、元圦(取水口)の改修が行なわれる[1]
  • 1939年(昭和14年) - 堤外地(河川敷)にある流砂池や土砂吐水路などの改修が行なわれ、1946年(昭和21年)完工する[1]
  • 1958年(昭和33年) - 県の排水改良事業が着工される[1]。取水口や導水路(暗渠・開渠工)などの抜本的な改良に着手する。
    • 1961年(昭和36年) - 現在の取水口が完成する。現在、用水路と施設の管理は備前渠用水路土地改良区が行っている。
    • 1965年(昭和40年) - 県の排水改良事業が完工する[1]
  • 2020年(令和2年)- 世界かんがい施設遺産に登録される[3]

名称の由来

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伊奈備前守忠次によって計画されたことに由来する[1]は堀、人工河川などの中国風の呼び方である。

橋梁

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唐沢川の下を潜り抜ける備前渠
備前渠鉄橋
新井橋付近
国道17号上武街道の蓮沼橋
水神祠(深谷市)
熊谷市飯塚地区(非灌漑期)

※上流より

(これより上流は暗渠)
- 本庄市山王堂で御陣馬川に合流 -
- 本庄市久々宇で御陣馬川より分流 -
- 深谷市岡で小山川に合流 -
- 深谷市矢島で小山川より分流 -

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日、724頁。ISBN 4040011104 
  2. ^ a b 備前渠用水 - 全国水土里ネット(疏水名鑑)
  3. ^ 世界かんがい施設遺産:農林水産省”. www.maff.go.jp. 2020年12月21日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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