伊伐於慮鞮単于
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伊伐於慮鞮単于(いはつおりょていぜんう、ピン音:Yīfáwūlǜdīchányú, ? - 59年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。烏珠留若鞮単于の子、丘浮尤鞮単于の弟。伊伐於慮鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は汗という。
烏珠留若鞮単于の子として生まれる。
中元2年(57年)、兄の丘浮尤鞮単于が薨去すると、汗が伊伐於慮鞮単于として即位した。
永平2年(59年)、北匈奴の護於丘は千余人の衆を率いて南匈奴に来降した。この年、伊伐於慮鞮単于汗は薨去し、甥の適(醢僮尸逐侯鞮単于)が立った。
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