青木健作 (小説家)
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(井本健作から転送)
青木 健作 | |
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誕生 |
1883年11月27日 日本 山口県都濃郡富田村(現・周南市) |
死没 | 1964年12月16日(81歳没) |
墓地 | 小平霊園 |
職業 | 俳人、小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京帝国大学哲学科 |
活動期間 | 1909年 - 1962年 |
ジャンル | 俳句、小説 |
デビュー作 | 『鼬鼠』 |
子供 | 井本農一 |
所属 | 「無花果句会」主宰 |
影響を受けたもの
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青木 健作(あおき けんさく、1883年11月27日[1] - 1964年12月16日)は、日本の小説家、俳人。法政大学名誉教授。本名は井本 健作[2](青木家より井本家に養子)。国文学者・井本農一の父。
来歴
[編集]1883年(明治16年)11月27日、山口県都濃郡富田村(現・周南市河内町)に生まれる[1]。1905年(明治38年)旧制山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学哲学科を卒業し、千葉県成田中学教諭として勤務。同僚の鈴木三重吉の影響により小説を執筆。
1910年(明治43年)「虻」を夏目漱石に賞賛され[1]、「お絹」「錆たる鍬」等を発表[1]。1915年(大正4年)旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭。同年、『帝国文学』の編集を手がけ、芥川龍之介の「羅生門」を掲載する[1]。
1920年(大正9年)野上豊一郎の推薦により法政大学教授に就任。1938年(昭和13年)法政大学予科長に就任(翌年法政大学第二中学校校長を兼務)。1945年(昭和20年)法政大学図書館長に就任(1952年まで)。1946年(昭和21年)俳句結社「無花果句会」を起す。1954年(昭和29年)法政大学定年退任。
著書
[編集]- 『お絹』(春陽堂 現代文芸叢書、1913年)
- 『若き教師の悩み 附・彼と少年、残骸』(天祐社、1919年)
- 『デモクラシー』(学芸書院 最新学芸叢書、1919年)
- 『青木健作短編集』(春陽堂、1928年)
- 『新講俳諧史』(育英書院 1935年)
- 『随筆椎の実』(子文書房、1943年)
- 『面影 : 井本静子追悼録』(1962年)
- 『ふるさと文芸』(青木健作顕彰の会、1994年)
- 『青木健作自筆俳句集を読む』(井本商三、桑原伸一監修 瀬野光敏編 いづみ出版 2006年 ひかり文庫)
参考文献
[編集]- 『日本近代文学大事典』(講談社、1984年)
- 桑原伸一『青木健作 初期作品の世界』(笠間書院 1992年)