安秉範
安 秉範 | |
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生誕 |
1890年8月21日 朝鮮国 漢城府 (現・ 韓国 ソウル) |
死没 |
1950年7月29日(59歳没) 韓国 ソウル仁王山 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
軍歴 |
1914 - 1945(日本陸軍) 1945 - 1950(韓国陸軍) |
最終階級 |
陸軍大佐(日本陸軍) 陸軍准将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立ソウル顕忠院第1将軍墓域232号 |
安 秉範 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 안병범 |
漢字: | 安 秉範 |
発音: | アン・ビョンボム |
安 秉範(アン・ビョンボム、안병범、あん へいはん、1890年8月21日 - 1950年7月29日)は、大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍の軍人。最終階級は、日本軍人としては大佐、韓国軍人としては准将[1]。別名・安鐘寅、創氏改名時の日本名は亀村貞信[1]。
経歴
[編集]ソウルの桂洞出身。李氏朝鮮末期に日本の陸軍中央幼年学校に留学し、1914年に陸軍士官学校の第26期生卒業。歩兵第13連隊に配属[2]。同年12月25日、歩兵少尉[3]。1918年7月29日、歩兵中尉[4]。1925年3月18日、歩兵大尉[3]。1926年4月16日、歩兵第73連隊中隊長[5]。1928年5月28日、李垠殿下御付武官[6]。1933年3月18日、歩兵少佐[3]。1934年6月8日、歩兵第73連隊副官[3]。1936年3月7日、歩兵第73連隊附[7]。1939年、中佐。1943年8月2日[8]、大佐に昇進し終戦を迎える。[9]。終戦時は第124停車場司令官[10]。
1945年8月末、李應俊、金錫源、申泰英などと共に朝鮮臨時軍事委員会を発足[11]。
1949年1月、韓国陸軍士官学校第8期特別第1班で1週間の訓練を受け、任大佐(軍番12443番)、護国軍第103旅団長[12][13]。1949年8月、釜山兵事区司令官[14]。1950年1月、陸軍参謀学校修了[14]。1950年6月、青年防衛隊首都防衛隊顧問[14]。
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、北朝鮮軍の急激な進攻によりソウルから脱出できず、6月29日に仁王山で割腹自殺した[9]。死後、准将に追叙。また、朝鮮戦争では下の息子2人も戦死している[9]。
安の遺骨は国立ソウル顕忠院に埋葬されている。
死後の評価
[編集]2008年に民族問題研究所が発表した、親日人名辞書収録予定者名簿の軍部門に選定された。
親族
[編集]- 長男 安光鎬:陸士第8期特別第4班[15](軍番15150番)、1953年米陸軍指揮幕僚大学留学[16]、軍事休戦委員団委員、駐米大使館付武官、予備役准将、大韓貿易振興公社社長[17]、1992年7月没)
- 次男 安光銖:日本陸士58期卒、日本陸軍少尉、軍事英語学校卒(軍番10024番)、予備役大佐
- 三男 安光錫:生徒2期生、戦死[17]
- 四男 安光鎭:戦死[17]
- 五男 安光銑:
脚注
[編集]- ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、681頁。
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.大正6年9月1日調260コマ
- ^ a b c d 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.昭和10年9月1日調134コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.大正14年9月1日調227コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.大正15年9月1日調219コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.昭和3年9月1日調218コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.昭和11年9月1日調118コマ
- ^ “第143号 昭和18年8月3日 陸軍異動通報” (PDF). アジア歴史資料センター. 2018年12月3日閲覧。
- ^ a b c “朴正煕 逝去30周年記念連載⑫ ― 企てられたクーデター”. 統一日報. (2009年6月6日) 2010年4月22日閲覧。
- ^ 松原慶治 編『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』戦誌刊行会、1985年、1434頁。
- ^ 軍史編纂研究所 2004, p. 316.
- ^ 軍史編纂研究所 2004, p. 332.
- ^ 佐々木a 1976, p. 204.
- ^ a b c 佐々木a 1976, p. 418.
- ^ 軍史編纂研究所 2004, p. 333.
- ^ “<869>老兵이 걸어온 길-119-미국시찰과 교육” (朝鮮語). 국방일보. (2008年12月4日) 2021年4月11日閲覧。
- ^ a b c 佐々木b 1976, p. 473.