コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

山九

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中部海運から転送)
山九株式会社
SANKYU INC.

本社ビル

本店
種類 株式会社
市場情報
東証プライム 9065
1962年3月1日上場
福証 9065
1962年5月1日上場
本社所在地 日本の旗 日本
104-0054
東京都中央区勝どき6-5-23
本店所在地 801-0852
福岡県北九州市門司区港町6-7
設立 1918年大正7年)10月1日
業種 陸運業
法人番号 7290801005328 ウィキデータを編集
事業内容 港湾運送事業、海運業、内航海運業並びに船舶代理、損害保険代理及び仲立業 他
代表者 中村公一代表取締役会長
中村公大(代表取締役社長
吾郷康人(代表取締役副社長
美好秀樹(代表取締役専務取締役)
小川隆[要曖昧さ回避](代表取締役専務取締役)
資本金 286億19百万円
売上高 連結:5,338億70百万円
単体:3,909億09百万円
(2021年3月期)
営業利益 連結:339億28百万円
単体:234億42百万円
(2021年3月期)
経常利益 連結:349億97百万円
単体:262億13百万円
(2021年3月期)
純利益 連結:235億40百万円
単体:195億20百万円
(2021年3月期)
純資産 連結:2,370億35百万円
単体:1,591億43百万円
(2021年3月31日現在)
総資産 連結:4,568億30百万円
単体:3,698億56百万円
(2021年3月31日現在)
従業員数 連結:31,054名
単体:12,467名
(2022年3月現在)
決算期 3月31日
主要株主 日本トラスティ・サービス信託銀行株式会社 (信託口) 9.96%
日本マスタートラスト信託銀行株式会社 (信託口) 7.41%
日本製鉄株式会社 4.41%
日本トラスティ・サービス信託銀行株式会社 (信託口9) 3.21%
財団法人ニビキ育英会 3.00%
株式会社みずほコーポレート銀行 2.54%
明治安田生命保険相互会社 1.84%
ジュニパー 1.77%
日本トラスティ・サービス信託銀行株式会社 (信託口4) 1.74%
東京海上日動火災保険株式会社 1.61%
主要子会社 株式会社サンキュウ・トランスポート(6社)
関係する人物 中村精七郎(創業者)
外部リンク https://www.sankyu.co.jp/
テンプレートを表示

山九株式会社(さんきゅう、: SANKYU INC.)は、本店を福岡県北九州市門司区に、本社を東京都中央区勝どきに置く、大手総合物流企業。JPX日経インデックス400構成銘柄の一つ。従業員数は単体で約1万2千人、連結で約3万人となっている。

概要

[編集]

一般港湾運送事業、貨物自動車運送事業だけでなく、国際物流事業、倉庫事業、機工事業など幅広い物流サービスを提供している。また、日本製鉄JFEホールディングス神戸製鋼所三井化学住友化学川崎重工業三菱重工業AGCプロクター・アンド・ギャンブル・ジャパン等が大荷主であり、梱包や在庫管理といったロジスティクス事業だけでなく、プラントエンジニアリング事業としてプラント建設や据え付け、メンテナンス、改修や解体までを手掛けている点も特徴の一つである。重量物輸送・据付の分野に関してはパイオニアである。自社でも内航コンテナ船を運航している。また、日本通運日新と共に「中国物流御三家」と呼ばれている。 グループ年間売上高で国内陸運業界第9位。 従業員数は山九グループ全体で30,000人越えとなっており国内トップクラスの大企業である。

社名の由来

[編集]

中村汽船(1969年に日本郵船の傘下となる)が、当時八幡徳山といった九州地方山陽地方を基盤として事業を行っていた磯部組を買収した際、それぞれの地方名の頭文字と中村精七郎のロンドンでの体験に基づく[1]感謝の気持ちとしての英発音「サンキュー(Thank You)」とを掛け合わせて、磯部組の社名を山九運輸機工株式会社とした事に由来する。 なお、コーポレートスローガンは「ありがとうの気持ちが会社の名前です」である。

略歴

[編集]

沿革

[編集]
山九本店にある説明板

平戸出身の中村精七郎[2](なかむら せいしちろう、1872年 - 1948年)が創業した中村組(1905年設立)傘下に、1918年10月に磯部組を買収して設立された山九運輸株式会社が起源である。

創業当初

[編集]
  • 創業当時の事業内容は、朝鮮半島満州山東省からの鉄鉱石石炭の陸揚げや無煙炭輸送などの輸送事業で、創業当初から海外で事業(第二次世界大戦までに15か所の海外拠点を所有)を行っていた。
  • 官営八幡製鉄所や徳山海軍、光海軍、四日市海軍等の燃料所における構内作業。
  • その他、北九州での連絡渡船業や土木建設等多岐にわたっていた。

大正~昭和戦前時代

[編集]
  • 1942年に就任した二代目社長中村勇一(初代社長の長男)は、戦時統制経済の中、当時親会社であった中村汽船の事業縮小を徹底的に行った。

昭和戦後時代

[編集]
  • 戦後になると後の基幹事業である陸上トラック作業や港湾作業、重量物・大型貨物の輸送、産業機械の解体・梱包、据付、通関・通運等へ進出を行う。
  • ただし山九とは対照的に親会社の中村汽船は、ドッジラインの実施によるドッジ不況や1949年のキティ台風による(はしけ)32隻の大中破(横浜)により、さらなる事業縮小を余儀なくされる。

昭和中期時代

[編集]
  • 1959年に先代社長の急逝により就任した三代目社長中村健治(初代社長の次男)は、運輸と機工のバランス発展に力を入れる。
  • 石油コンビナートが建設されるようになると、それに伴う重量、大容量機器の据え付けや保全作業の拡大に注力する。既存の製鉄所作業の拡大にも尽力する。
  • またこのころ、それまで九州に置いていた本社機能を東京へ移管(1961年)する。

昭和後期時代

[編集]
  • 1973年に就任した四代目社長中村公三(初代社長の三男)は、海外事業(中国インドネシアタイベトナムブラジル等)の現地法人化の推進や一貫責任体制の確立を行っていく。
  • 1982年にはその後2006年まで続く引越事業を開始する。この引越事業の開始により、それまで法人向けサービスを主としていたゆえの低い知名度が、テレビCM等の広告戦略により向上していくことになる。
  • 1986年、親会社である中村汽船が倒産。その際の負債総額595億円を全額負担することになり、市場からもこれ以上の経営継続は不可能だと考えられていた。
  • 1986年に就任した五代目社長中村公一(先代中村公三の長男)は、再建計画の一環として岡崎工業との合併を模索する一方で、中国や東南アジアに次々と現地法人を設立していく。

平成時代

[編集]
  • 中村汽船の負債が落ち着くまもなく、2001年3月期から財務諸表に記載が義務づけられた退職給付債務と年金資産等との差額が、それまで積み立てていた退職給付引当金ではあまりに少なかったため、さらに負債が拡大した(2000年3月期データで有利子負債が1,601億円までふくらんだ)。
  • 近年は客先の好況や転換社債の発行などにより、有利子負債はピーク時の半分以下にまで減り、ようやく安定した(2007年3月期データで753億円)。

日本製鉄との関係

[編集]

創業当時より日本製鉄とは緊密な関係にあり、さながら日本製鉄の物流部門の様相を呈している。副社長は日本製鉄より受け入れるのが慣例となっている。また山九は日本製鉄構内に支店、または事業所等が設置されている事も多い。副社長に限らず多くの出向受けが存在する。近年の安定株主対策により議決権割合は減ったものの、未だに大株主である。 ただし、実際には経営的影響力はほとんど無い。

言い伝え

[編集]

かじとり観音昭和霊験記

[編集]

知多半島南部にある密蔵院(愛知県知多郡)には母体となった中村汽船の船の話が言い伝えられている。境内にはその言い伝えが記載された看板がある。その看板には、

野間の里は千石船の昔より船と共に栄えてきたが、これらの船の生命をお譲りしたのが当山の『舵取り観音様』であった。以下中略。第二次世界大戦末期、昭和19年7月18日。中村汽船所属の軍御用船第十雲海丸は、小笠原近海で米軍の爆撃を受けて沈没。吉田船長以下7名は、1週間分の食糧と水を用意し救命艇で脱出。日本本土までの1,000キロメートル、観音信者の船長始め乗組員は、果てしない洋上を「南無観音菩薩」と唱えながら必死で漕ぎ、実に30数日間漂流した。観音様のお加護があって、日本近海を北上している強い黒潮の流れを突破、狭い伊勢湾の入り口に見事に入り、野間の沖に流れ着いた。この7名は出来る限りの救助を受け、1名はまもなく死亡したものの、残り6名は無事生命をつなぎ止めることが出来た。

という記述がある。

その他

[編集]

創業者

[編集]

中村精七郎(1872-1948)は、平戸藩勘定奉行も務めた中村弥八郎の七男として平戸で生まれたが、兄の勇三郎が事業を興した北海道に12歳で転居、18歳で米国へ遊学した[4][5][6]日清戦争時には、兄とともに軍事輸送船で働き、明治36年(1903年)に韓国仁川会社「木村組」で港湾荷役監督を務め、日露戦争でも軍事輸送を担い、明治38年に海運会社「中村組」を興した[4]第一次大戦の戦機に乗じて莫大な利益を上げ、八幡製鉄所の製鉄原料・鉄鉱石の採掘・輸送のほか、朝鮮から徳山海軍燃料廠への無煙炭運搬で活躍[4]杉山茂丸が起案した博多湾築港事業に巨費を投じ、築港会社の社長も務めた[2] [5]。大正7年(1918)に八幡製鉄所構内の荷役会社「磯部組」を吸収し、中村組の子会社として山九運輸を設立した[4]。事業だけでなく、物集高見を援助して大著『広文庫』20巻と『群書索引』3巻を完成させるなど、文化的支援も行なった[7][8]。妻の春子は安藤源五郎の娘で、相婿に小栗一雄らがいる[9]。息子の勇一、健治、公三が家業を継ぎ、庶子のゆわりは岳父安藤の養女となった[9]

実兄の山県勇三郎(1860-1924)は明治14年(1881)に家族に先立って北海道に渡り、商店の帳簿係を経て、移住者相手の古物商、函館横浜相手の海産物商を営み、日清戦争で兄弟とともに渡鮮、病を得たが帰国後ニシン漁で巨利を得、これを元手に海運業を手広く始めた[6]。両親兄弟妻を呼び寄せ、精七郎らを米国に遊学させ、後進養成機関の根室実習学校を創立、根室、釧路に牧場開設、釧路、千島、秋田などでの鉱山開発、網走でマッチ工場経営など道内有数の実業家となった[6]。日露戦争時には国内外10か所の支店を差配したが、明治41年、不況により事業を閉じ、二十銀行に不動産を売却[10]、残務整理を精七郎に一任してブラジルに移民、精七郎の支援を受けて、各種事業に着手したが病により死去した[6]。同じく実兄の中村辰五郎は1919年に中村組汽船部から分離して「朝鮮商工」を設立するも病没し、同社は娘婿の川添種一郎が継いだ[11]

歴代社長

[編集]
  • 1代目:中村精七郎
  • 2代目:中村勇一(精七郎の長男)
  • 3代目:中村健治(精七郎の二男)
  • 4代目:中村公三(精七郎の三男)
  • 5代目:中村公一(公三の長男)
  • 6代目:中村公大(公一の長男)

グループ会社

[編集]

等75社。

海外現地法人

[編集]
  • 山九ユー・エス・エー
  • 山九ヨーロッパ
  • 山九ブラジル
  • 山九メキシコ
  • 山九サウジアラビア
  • 山九オマーン
  • 山九インド
  • 山九タイ
  • 山九ベトナム
  • 山九マレーシア
  • 山九シンガポール
  • 山九インドネシア
  • 山九フィリピン連絡事務所
  • 北京山九(中国)
  • 山九昭安国際物流(台湾)
  • 太栄山九国際物流(韓国)

等44法人。

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 基本理念”. 山九株式会社. 2019年8月22日閲覧。
  2. ^ a b 博多港築港と明治人の気概” .【公式】データ・マックス NETIB-NEWS
  3. ^ 女子ラグビーチームとのネーミングライツ契約を締結~東京山九フェニックスに名称変更~”. 山九株式会社. 2024年2月10日閲覧。
  4. ^ a b c d 中村精七郎 山九(株)・創業者北九州イノベーションギャラリー産業技術保存継承センター、2007
  5. ^ a b 近代博多港築港の歴史と明治人中村精七郎の気概甲斐敏洋、
  6. ^ a b c d 山縣勇三郎サンパウロ人文科学研究所
  7. ^ 「ロマンを追って─元大分市長上田保物語─」中川郁二、大分合同新聞社、2003
  8. ^ 物集高見が出版した大百科事典『群書索引』『広文庫』前坂俊之オフィシャルウェブサイト、2021/08/18
  9. ^ a b 中村精七郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  10. ^ 第一銀行史 同行八十年史編纂室編 上巻・第七八三―七九一頁昭和三二年一二月デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
  11. ^ 『朝鮮の都市 京城と仁川』大陸情報社、1931年、p78

関連項目

[編集]

業務提携

[編集]

スポンサード

[編集]

同業他社

[編集]

外部リンク

[編集]