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小佐々純吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中浦甚五郎から転送)
 
小佐々純吉
小佐々兵部純吉の顕彰石祠
(佐世保市南風崎町)
時代 戦国時代
生誕

1547年天文16年) 戦国時代室町時代末期) 肥前国多以良村

(現・日本長崎県西海市大瀬戸町多以良内郷)
死没

1569年8月26日永禄12年7月4日) 戦国時代(室町時代末期) 肥前国宮村

(現・日本長崎県佐世保市南風崎町)
別名 通称:甚五郎、別称:中浦殿
諡号 純吉
墓所

小佐々弾正・甚五郎塚(小佐々弾正・兵部塚)(現・佐世保市南風崎町)

多以良の小佐々氏墓所(別称:住吉神社)(現・西海市大瀬戸町多以良内郷寺山)
官位 兵部少輔
氏族 宇多源氏小佐々氏第25代
父母

父:小佐々兵部大輔純勝(中浦城主)

母:田川弾正忠隆重(雪浦城主)の女
兄弟 純吉、純祐、純久
小佐々甚吾(中浦ジュリアン
特記
事項
西肥前の戦国領主小佐々水軍の副将、中浦城主、交易活動の惣役
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小佐々 純吉(こざさ すみよし、1547年天文16年〉−1569年8月26日永禄12年7月4日〉)は、戦国時代武将。西肥前五島灘海域を領有支配した小佐々水軍の副将で、水軍基地の七釜浦・中浦村・寺島などを知行した交易活動の惣役。天正遣欧少年使節中浦ジュリアン(幼名・小佐々甚吾)の父。ジュリアン生誕の翌年、大村純忠軍支援のため小佐々水軍が参戦した宮村合戦[1]で、敗走した大村純忠を助けるために葛峠(長崎県佐世保市宮津町)で奮戦、南風崎(はえのさき、現・佐世保市南風崎町)で討死にした[2][3][4][5]

経歴

[編集]
小佐々弾正・甚五郎塚
右から小佐々兵部純吉と小佐々弾正純俊の石祠。左は純俊と純吉の顕彰墓碑。
(佐世保市南風崎町)

西肥前の有力な戦国領主小佐々氏は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の挙兵で軍功を挙げた宇多源氏近江源氏嫡流佐々木定綱の後裔であり[2][3][4][5][6]室町幕府の4代将軍足利義持倭寇取締の命により応永年間に下向[2]、当時は大陸交易の重要拠点であった五島列島本土とを結ぶ五島灘海域を領有支配して、小佐々水軍と呼ばれる有力な水軍勢力となった[2][3][4][5][7]。「中浦殿」と呼ばれた中浦城主の純吉は小佐々水軍の副将であるが、小佐々水軍基地の七釜浦(七釜港=鳥崎港)や中浦村と寺島の他に、飛地として南風崎(現・佐世保市南風崎町)などを知行しており、交易活動を差配する惣役(司令官)として各種経済活動で栄えた[2][4][7]

1569年(永禄12年)夏に、大村純忠親族の宮村領主・大村純種が純忠に叛いて武雄の後藤貴明に与したため、宮村城(小峰城、現・佐世保市長畑町)の純種討伐のため純忠が出兵した[3][5][1]。当時の中浦城主小佐々氏は、早岐瀬戸(はいきせと)の大村湾口の南風崎にある交易港の市場港と南風崎砦を領有していたので、純忠の要請で小佐々水軍も参戦することになった。宮村城が落城寸前になった時に、純種軍支援のため後藤軍と松浦軍の大軍が純忠軍を包囲した。大軍の侵攻を見た純忠は直ちに軍勢と共に大村方面へ敗走して助かった。一方、殿戦で大村純忠を助けた小佐々軍は、敵の大軍に包囲されて松浦軍の鉄砲隊の集中砲火を浴びるなどして、小佐々水軍の本城城主で大将の小佐々弾正大弼三郎純俊(四代小佐々弾正)と副将の小佐々兵部少輔甚五郎純吉(二代小佐々兵部)が奮戦して壮絶な戦死を遂げることになった [2][3][5][7]

この合戦で戦死した両士を埋葬した墓所は、戦国時代に建立されて平成4年に修復されており、「小佐々弾正・甚五郎塚(小佐々弾正・兵部塚)」(現・佐世保市南風崎町)として現存する[3][5][8]。また、両士の遺髪を埋葬した墓所(改葬墓)は「長崎県指定史跡・多以良の小佐々氏墓所」(別称:住吉神社、現・西海市大瀬戸町多以良内郷寺山)として祀られている[2][3][4][5][9][10][11]

1568年2月(永禄11年正月)生れの純吉息子の小佐々甚吾は、後に大村純忠に選ばれてローマを公式訪問した天正遣欧少年使節中浦ジュリアンである[2][3][4][5][7]。父親の純吉が戦死した頃の小佐々氏一族は、西彼杵半島西岸の外海地方の外浦衆の惣領家(小佐々水軍)で、五島灘海域を領有支配した独立勢力の戦国領主であり、当時は大村純忠の配下ではなかった。小佐々氏一族は東楽寺(現・東楽寺跡、西海市大瀬戸町多以良内郷)を菩提寺とする仏教徒で[2][5][12]、小佐々氏一族がキリシタンに改宗したのは、甚吾が大村純忠の居城・三城城に行った天正初期(1575年頃)である。また、関白豊臣秀吉が発令した海賊禁止令により小佐々水軍の城館が廃止された天正16年(1588年)に、小佐々氏は秀吉の命で大村氏の家臣団入りして、江戸時代には純吉の子孫は家老中老番頭などの重職を歴任して大村藩の重臣となった[2][4][5]

記念碑等

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  • 小佐々弾正・甚五郎塚(小佐々弾正・兵部塚):長崎県佐世保市南風崎町。
  • 多以良の小佐々氏墓所(長崎県指定史跡):長崎県西海市大瀬戸町多以良内郷寺山。
  • 小佐々水軍顕彰之碑:西海市西海町七釜港。
  • 小佐々學博士顕彰之碑:西海市西海町七釜港。
  • 中浦ジュリアン顕彰之碑:西海市西海町中浦「中浦ジュリアン記念公園」西側隣接地。
  • 西方のローマを指さす中浦ジュリアン像:「中浦ジュリアン記念公園」展示室屋上。
  • 中浦ジュリアンの生涯を描いたフレスコ壁画:「中浦ジュリアン記念公園」展示室内。
  • 十字架のように手を広げて立つ中浦ジュリアン像:西海市西海町木場「西海スポーツガーデン体育館」前。
  • 禁教下で布教して歩く中浦ジュリアン像:長崎県島原市白土町「カトリック島原教会」前。
  • 天正遣欧少年使節顕彰之像:長崎県大村市森園町。

脚注

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  1. ^ a b 藤野保「宮村、古戦場之事・葛の峠古戦場」『大村郷村記 第三巻』国書刊行会、1982年。 
  2. ^ a b c d e f g h i j 小佐々学「福者中浦ジュリアンと中浦城主小佐々氏の家系−中浦城主家子孫に伝わる源姓小佐々氏系図について−」『キリシタン文化研究会会報142号』キリシタン文化研究会 上智大学、2013年。 
  3. ^ a b c d e f g h 小佐々学「小佐々弾正・甚五郎塚と中浦ジュリアン」『大村史談48号』大村史談会、1997年。 
  4. ^ a b c d e f g 小佐々学「小佐々水軍と中浦ジュリアン」『大村史談51号』大村史談会、2000年。 
  5. ^ a b c d e f g h i j 脇田安大「第Ⅱ部 西海地区のキリスト教、⒊中浦ジュリアンと小佐々水軍・⒋小佐々氏一族の関連遺跡」『世界遺産公式ガイドブック「探訪長崎の教会群」 大村・西海外海編』長崎の教会群情報センター、2018年。 
  6. ^ 近江源氏 沙沙貴神社系図、沙沙貴神社所蔵
  7. ^ a b c d 小佐々学「中浦ジュリアンを生んだ西海の歴史と風土」『長崎県地方史だより68号』長崎県地方史会、2009年。 
  8. ^ 「小佐々弾正・甚五郎塚」は、JR大村線のハウステンボス駅と南風崎駅との間にある南風崎トンネル上の西側斜面にある。ハウステンボス駅から早岐瀬戸沿いに南へ徒歩5分、南風崎駅から線路沿いに北へ徒歩3分。
  9. ^ 小佐々学「長崎県指定史跡 多以良の小佐々氏墓所について」『大村史談39号』大村史談会、1991年。 
  10. ^ 「長崎県指定史跡・多以良の小佐々氏墓所」は、小佐々兵部純吉と伯父の弾正純俊両士の墓所で、昭和初期から地元の多以良下郷の郷社となり、純吉と同音の「住吉神社」として祀られている。国道202号線の下多以良橋の南端から、多以良川沿いに東側を北へ徒歩1分。
  11. ^ 藤野保「多以良村、古廟之事」『大村郷村記 第五巻』国書刊行会、1982年。 
  12. ^ Diogo de Mesquita, EIP. Valignano Y la Legacion, Jap.Sin.22, f.101 (ディオゴ・デ・メスキータ「巡察師ヴァリニャーノ神父と天正の使節」)

関連項目

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