海野幸親
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(中原兼保から転送)
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 永治2年(1142年) |
死没 | 寿永3年1月21日(1184年3月5日) |
別名 | 小太郎、行親、幸直 |
官位 | 信濃守、左衛門尉、左馬頭 |
氏族 | 海野氏 |
父母 | 父:海野広道 |
兄弟 | 幸通、幸親 |
妻 | 海野幸真の娘? |
子 | 幸広、幸長、幸氏 |
海野 幸親(うんの ゆきちか)は、平安時代末期の信濃国の武将。滋野行親(しげの の ゆきちか)と記されることもある。
概要
[編集]海野氏の祖とされることもある海野広道(廣通)の次男。源平合戦前後に活躍し、『平家物語』に木曾義仲の侍大将として子の幸広や幸氏と共に登場する。『保元物語』に「宇野太郎(海野太郎)」として登場した人物とされ、信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる海野一族の初見となった。
出身は木曽中原氏(中原兼経の子)で、義仲の乳母父中原兼遠と兄弟で初めは中原兼保(なかはら の かねやす)と名乗ったという説や、木曾義仲の四天王の一人根井行親と同一人物とする説があるなど、不明な点が多い。
兄の幸通の跡を継いで海野氏の当主となり、保元2年(1157年)の保元の乱では、300騎を率いて源義朝の下に参じた。寿永2年(1181年)の木曾義仲の挙兵に呼応して、横田河原の戦いに参戦している。そのまま義仲に従って上洛し、寿永2年(1183年)の備中水島の戦いで嫡男の幸広が平教経と戦って戦死している。同年の法住寺合戦に参加。翌寿永3年(1184年)1月21日の粟津の戦いにて討死し、義仲らと共に七条河原で獄門にかけられた(延慶本『平家物語』)。
支流・分家
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 田中豊茂「信濃中世武家伝」信濃毎日新聞社 2016年