與語淑子
よご としこ 與語 淑子 | |
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生誕 | 1965年5月3日 |
死没 | 2010年5月2日(44歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 愛知淑徳短期大学[WEB 1] |
與語 淑子(与語 淑子、よごとしこ、1965年<昭和40年>5月3日[WEB 1] - 2010年<平成22年>5月2日[新聞 1])は、名古屋市中区栄二丁目にあった「みその亭」のおかみ[新聞 2]、日本舞踊家。
人物
[編集]東邦ガス代理店の家の長女として生まれる[WEB 1]。愛知淑徳短期大学卒業後、かに道楽に入社[WEB 1]。
在学中にナゴヤ球場でアルバイトしていたときに出会った「みその亭」の創業者がかに道楽に現れ、半年で「ペリカンみその」[注釈 1]に引き抜かれた[WEB 1]。不振だった店を繁盛店に変えたが、結婚を見据えて、名古屋大学工学部総務課に転職[WEB 1]。その頃に「みその亭」の創業者が亡くなり、自ら「みその亭」の女将を買って出たという[WEB 1][注釈 2]。
「みその亭」は、もともとは1950年(昭和25年)創業の料理旅館だった[新聞 1]。料理旅館時代は読売ジャイアンツや阪神タイガースをはじめとした野球関係者の定宿でもあり、2階には現役時代の王貞治が素振りをしたという部屋も残るという[新聞 1]。淑子は同じくがんと闘病する王貞治に千羽鶴を送り、王もそれに対して「互いに頑張りましょう」としたためた色紙を返したという[新聞 1]。また、王はがんとの闘病において、淑子の前向きな姿勢が励みになったと振り返る[新聞 1]。
2002年、日本舞踊を始めた[新聞 2]。きっかけは西川流の師匠から誘われたことによる[新聞 2]。
2006年11月、卵巣がんが発覚[新聞 2]。手術後、仕事には復帰したものの、2007年4月の名取の試験を受けることは断念した[新聞 2]。しかし、日本舞踊の師匠に励まされ、2007年8月に練習を再開[新聞 2]。体力をつけるために抗がん剤を絶っての挑戦であった[新聞 2]。2008年4月、日本舞踊の名取に合格[新聞 2]。
師匠の名「好風」(こうふう)から「風舞」(かざまい)と付けた[新聞 2]。
2009年3月の「名披露目」も決まったが、2008年7月下旬に病状が悪化[新聞 2]。余命半年と宣告された[新聞 3]。
2010年1月にはハワイの老人ホームで慰問公演を行った[新聞 1]。
「今を生きる」と題した講演活動も意欲的に行った[新聞 3]。その最後は2010年4月24日、名古屋市内の企業で、鼻に酸素管を付けたまま講演に臨んだ[新聞 1]。
2010年5月、卵巣がんで死去[新聞 3]。44歳[新聞 4]。翌日が45歳の誕生日だった[新聞 4]。
葬儀は2010年5月4日、社葬として営まれた[新聞 1]。
2010年10月9日に師匠の好風が追悼の舞を務めた[新聞 3]。このときの舞は、生前淑子が常連客の作曲家からもらった「生きる喜び」という曲に大師匠の西川好弥が振り付けしたものだった[新聞 3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]WEB
[編集]新聞
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 「中区の老舗料理店「みその亭」44歳、與語淑子さん死去―おかみ 笑顔と挑戦貫く」『中日新聞朝刊』2010年5月8日、33面。
- ^ a b c d e f g h i j 「夢舞台へ魂の舞 がん闘病、名古屋の料理屋おかみ 名取り披露へけいこ」『中日新聞夕刊』2008年8月21日。
- ^ a b c d e 片山夏子「がん闘病 最期まで前向き「生きる喜び」踊りに―「みその亭」前おかみの遺志実現 日舞の師匠ら中区で9日披露」『中日新聞夕刊』、11面。
- ^ a b 寺本政司「料理店「みその亭」おかみ 與語淑子さん―「細腕」人生 力の限り」『中日新聞夕刊』2010年5月29日、2面。
参考文献
[編集]- 日外アソシエーツ 編『愛知県人物・人材情報リスト 2023』 1巻、2023年10月。