コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

邑井貞吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一龍斎貞吉から転送)

邑井 貞吉(むらい ていきち)は、講釈師の名跡。

3代目

[編集]

本名は村井一太郎、後に為久四一[1]1862年文久2年)10月 - 1902年(明治35年)11月7日没。

江戸牛込の生まれ。2代目の子で、幼いころから吉雄の名で高座に出る[2]。幼い頃から文学に親しみ、父邑井一も医者にするつもりであったが、邑井吉瓶の厳しい指導によって、3代目貞吉を継ぐに至った[2]

新作講談を得意とし、「石川五右衛門」も得意だった[1]

4代目

[編集]

4代目邑井 貞吉1879年(明治12年)10月28日 - 1965年(昭和40年)2月11日)本名、相川喜太郎(あいかわ きたろう)[3]。山梨県甲府市生まれ[3]。講談組合頭取を長らく続け、周囲から「貞吉頭取」と呼ばれていた。

1879年10月、甲府に生まれ、5歳で東京神田に移る[3]。神田千桜小学校を卒業、6代目一龍斎貞山(当時は貞丈)の講談を聞いて講談師を志す[3]。商工中学へ1年通学するが、1895年、3代目邑井貞吉に入門する[3]。入門後、1年程度で吉弥と名乗る[3]1905年10月、4代目邑井貞吉を襲名[3]

当時の小説『当世五人男』『新比翼塚』や『漢楚軍談』『三国志』といった古典を講談に仕立てた[3]。2度渡米し、新聞雑誌をよく読み、世界情勢を講談に取り入れたりした[3]。弟子に邑井操がいる。

脚注

[編集]
  1. ^ a b 吉田修『東都講談師物語』中央公論事業出版、2017年6月、96-99頁。 
  2. ^ a b 菊池真一編『講談資料集成第1巻』和泉書院、2001年3月、32頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i 吉田修『東都講談師物語』中央公論事業出版、2017年6月、99-103頁。