アントワーヌ・ヴァトー
アントワーヌ・ヴァトー Antoine Watteau | |
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『アントワーヌ・ヴァトーの肖像』(1721年)ロザルバ・カリエラ | |
生誕 |
1684年10月10日 フランス王国・ヴァランシエンヌ |
死没 |
1721年7月18日 (36歳没) フランス王国・ノジャン=シュル=マルヌ |
運動・動向 | ロココ[1] |
アントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau 発音例, 1684年10月10日 - 1721年7月18日[2])は、ロココ時代のフランスの画家。
18世紀のヨーロッパはロココの時代であり、前世紀のバロック様式に代わって、曲線的、装飾的で甘美なロココ様式が全盛となった。絵画の主題においても歴史画や宗教画から、男女の愛の駆け引きを主題にした風俗画が目立つようになる。
「雅びな宴」(フェート・ギャラント fêtes galantes)の画家と呼ばれるヴァトーは、若くして亡くなったが、18世紀フランスのロココ様式を代表する画家と見なされている。
生涯
[編集]1684年、フランス西北部、ベルギー国境に近いヴァランシエンヌに生まれる。この土地は元フランドルに属し、1678年のニメーグ条約でフランス領に編入されたばかりであった。 父親は瓦職人であった。地元で有名だった画家J.-A.ゲランのもとで短期間絵画の勉強をした。 1702年6月7日にゲランが死んでしばらくするとパリに移る。パリではノートル・ダム橋にあった複製絵画の製造業者のもとで、他の徒弟たちとともに宗教画や風俗画のコピーを手がけた。このころヴァトーはレンブラントの弟子ヘリット・ダウの原作にもとづく《読書する女性》の複製画や、《聖ニコラ》を描いたタブローを描いている。 パリではさらにクロード・ジロー、そしてクロード・オードランの下で修業をした。
1717年に完成した代表作『シテール島の巡礼』で王立絵画彫刻アカデミー入会が認められる。1719年の終わりごろ、健康の回復を期してロンドンに渡る。1720年には画商だった友人ジェルサン(en:Edme-François Gersaint)の依頼で店の看板画である『ジェルサンの看板』を制作する[3]。だが1721年、結核と思われる病のため、フランスへ戻って間もなく短い一生を終えた。
ヴァトーの典型的な作品は、『シテール島の巡礼』のような、田園に集い愛を語り合う若い男女の群れを描いたもので、これらは「雅びな宴」の絵と呼ばれた。また彼はイタリア喜劇やオペラに傾倒しており、友人らをモデルにし、喜劇の登場人物として描いた『ピエロ』(別名をジル)、『メズタン』のような作品もある。
代表作
[編集]- 困った申し出 (1715年または1716年)(エルミタージュ美術館)
- シテール島の巡礼(1717年)(1718-19年頃)(ルーヴル美術館およびベルリン、シャルロッテンブルク城)
- ヴェネツィアの祝宴 (1719年)(スコットランド国立美術館)
- ジェルサンの看板(1720年)(ベルリン、シャルロッテンブルク城)
- メズタン(1718-1720年頃)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
- ピエロ(旧称ジル)(1718-1720年頃)(ルーヴル美術館)
- 夏の木陰(1715年頃)(名古屋、ヤマザキマザック美術館[1])
- アントワーヌ・ド・ラ・ロックの肖像(1718年頃)(東京都八王子市、東京富士美術館[4])
ギャラリー
[編集]-
『困った申し出』エルミタージュ美術館
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『シテール島の巡礼』ルーヴル美術館
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『ジェルサンの看板』
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『ポーランドの女性』
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『メズタン』(1718-1720年頃)メトロポリタン美術館
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『ご機嫌ピエロ』
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『ピエロ』(旧称ジル)ルーヴル美術館
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『愛の賛歌』
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『猟師』
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『舞踏』
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『ヴェネツィアの祝宴』スコットランド国立美術館
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『愛のレッスン』
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『驚き』
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『愛の祝祭』
脚注
[編集]- ^ a b “仏の名画並べ開館 ヤマザキマザック美術館”. 中日新聞 (中日新聞社). (2010年4月23日) / 開館記念 ヤマザキマザック美術館所蔵作品展 2010年
- ^ Antoine Watteau French painter Encyclopædia Britannica
- ^ 『名画と建造物』、2023年10月12日発行、中野京子、角川書店、P188。
- ^ 作品解説 東京富士美術館
関連項目
[編集]- 共に「シテール島への巡礼(船出)」に基づくピアノ曲として、前者は『喜びの島』、後者は絵と同名の作品を書いている。