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ラウフフェルトの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ローフェルトの戦いから転送)
ラウフフェルトの戦い

ラウフフェルトの村をモーリス・ド・サックスに示すルイ15世ルイ=シャルル=オーギュスト・クーデ英語版作、1836年。
戦争オーストリア継承戦争
年月日1747年7月2日
場所リエージュ司教領、ラウフフェルト(現ベルギーリムスト英語版
結果:フランスの決定的な勝利[1]
交戦勢力
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
ネーデルラント連邦共和国の旗 ネーデルラント連邦共和国
ハプスブルク帝国 ハプスブルク帝国
ハノーファー州 ハノーファー選帝侯領
フランス王国の旗 フランス王国
指導者・指揮官
グレートブリテン王国の旗 カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス
ネーデルラント連邦共和国の旗 ヴァルデック侯カール・アウグスト英語版
ハプスブルク帝国 カーロイ・ヨージェフ・バッチャーニ英語版
フランス王国の旗 モーリス・ド・サックス
戦力
60,000 80,000
損害
8,000[2]
うち捕虜2,000[3]
大砲16門
8,700[4]
うち捕虜1,500
オーストリア継承戦争におけるネーデルラント。ラウフフェルトは右下にある。
ラウフフェルトの戦いの地図
モーリス・ド・サックス
ラウフフェルトの戦いにおけるモーリス・ド・サックス、ピエール・ランファン英語版作。

ラウフフェルトの戦い(ラウフフェルトのたたかい、英語: Battle of Lauffeld[5])は、オーストリア継承戦争中の1747年7月2日[6]、フランスによるネーデルラント侵攻の一環として行われた戦闘。モーリス・ド・サックス元帥率いるフランス軍に対し、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス率いるイギリスとハノーファー軍、オラニエ公ウィレム4世率いるネーデルラント連邦共和国軍など国事詔書を支持する同盟軍がマーストリヒトの西にあるラウフフェルトで会戦に挑んだ。サックスは同盟軍を移動させるためにクレルモン侯率いる分遣隊を派遣、カンバーランド公はつられて分遣隊を攻撃して勝利したが、サックスはフランス本軍を自ら選んだ戦場へ移動させ、同盟軍を見事に撃破した。

戦闘

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カンバーランド公は今やフランス本軍に直面していた。ジョン・リゴンアー英語版将軍は同盟軍の前方にある村を占領、要塞化すべきと進言したがカンバーランド公は聞き入れなかった。ロクールの戦いのときと同じく、右翼のオーストリア軍は前進してフランス軍左翼を攻撃することを拒否した。フランスはラウフフェルトに対し5回突撃し、互いにラウフフェルトを数回占領するなど激戦だったが、やがてサックスが勝利した。最後の攻撃ではフランスの縦隊がイギリスとヘッセン兵1万人をラウフフェルトから追い出した。

カンバーランド公はオランダ軍とイギリス軍を再編して反撃したが、オランダ騎兵はフランスのカラビニアー部隊の突撃で撃破されてフランス騎兵から逃げ、オランダ騎兵の後ろにいる歩兵も混乱に陥った。フランス騎兵はそこで同盟軍の中央部に一撃を加え[7]、フランス軍全体が前進したことで同盟軍左翼のイギリス歩兵が全滅の危機に陥った。リゴンアー将軍は独断で騎兵を突撃させて全滅を免れた。オーストリア継承戦争を通して最大規模の騎兵戦となったこの戦闘では計1万5千の騎兵が参戦しており、フランス軍のアイルランド大隊の7個連隊が死傷者1,400人以上を出した[8]。イギリス国王ジョージ2世最愛の息子であったカンバーランド公はアイルランド大隊が赤い服を着ていたため自軍と誤認し、危うく捕虜にされるところだった。リゴンアーが騎兵の大部隊を連れてやってきたことでカンバーランド公は間一髪で逃れることができたが、その栄光は失われた[9]

その後

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フランスの勝利により、ネーデルラント連邦共和国への道の障害が全て取り払われた。同盟軍が撤退したことでサックスはレーヴェンタール伯爵英語版率いる軍勢3万を北に派遣してベルヘン・オプ・ゾームを陥落させた。こうして1747年の戦役は終わるが、翌1748年の戦役が始まるやサックスはマーストリヒトを包囲、マーストリヒトは5月7日に落城した。マーストリヒトが包囲されたことで講和交渉は4月に始まり、10月のアーヘンの和約で戦争は終わりを告げた。モーリス・ド・サックスの連勝に伴い同盟軍がネーデルラントで敗退したことで、フランスはマーストリヒトからの砲声が轟く中の平和交渉を主導した。

脚注

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  1. ^ Paul Langford (1998). A Polite and Commercial People: England 1727-1783. Oxford University Press. p. 209. ISBN 978-0-19-820733-7. https://books.google.com/books?id=9-b81opKYREC&pg=PA209 20 April 2013閲覧。 
  2. ^ History of England, Phillip Henry Stanhope, p. 333, "The number of killed and wounded, on both sides, was very great, and nearly equal."
  3. ^ Skrine, Francis Henry. Fontenoy and Great Britain's Share in the War of the Austrian Succession 1741-48. London, Edinburgh, 1906, p. 331.
  4. ^ Skrine, Francis Henry. Fontenoy and Great Britain's Share in the War of the Austrian Succession 1741-48. London, Edinburgh, 1906, p. 332.
  5. ^ ほかにもLafeltLaffeldLawfeldLawfeldtなどの表記ゆれがあり、またマーストリヒトの戦い(マーストリヒトのたたかい、: Battle of Maastricht)やヴァルの戦い(ヴァルのたたかい、: Battle of Val)といった別称がある。
  6. ^ Williams, Hywel (2005). Cassell's Chronology of World History. Weidenfeld & Nicolson. ISBN 0-304-35730-8 
  7. ^ Smollett, Tobias. History of England, from The Revolution to the Death of George the Second, London, 1848, Vol. II, p. 524.
  8. ^ McGarry, Stephen, Irish Brigades Abroad, Dublin, 2013, p. 135.
  9. ^ McGarry, Stephen, Irish Brigades Abroad, p. 134.

参考文献

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  • Stanhope, Phillip Henry, Lord Mahon. History of England From the Peace of Utrecht to the Peace of Versailles., Boston, 1853, Vol.III.
  • Browning, Reed.The War of the Austrian Succession, St. Martin's Press, New York, (1993): ISBN 0-312-12561-5
  • Chandler, David. The Art of Warfare in the Age of Marlborough. Spellmount Limited, (1990): ISBN 0-946771-42-1
  • Skrine, Francis Henry. Fontenoy and Great Britain's Share in the War of the Austrian Succession 1741-48. London, Edinburgh, 1906.
  • Smollett, Tobias. History of England, from The Revolution to the Death of George the Second, London, 1848, Vol.II.
  • McGarry, Stephen. Irish Brigades Abroad. Dublin, 2013.

座標: 北緯50度49分43秒 東経5度37分06秒 / 北緯50.82861度 東経5.61833度 / 50.82861; 5.61833