ロッキー・グラジアノ
基本情報 | |
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本名 | トーマス・ロッコ・バルベラ |
階級 | ミドル級 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
誕生日 | 1919年1月1日 |
出身地 | ニューヨーク州ニューヨーク市 |
死没日 | 1990年5月22日(67歳没) |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 83 |
勝ち | 67 |
KO勝ち | 52 |
敗け | 10 |
引き分け | 6 |
ロッキー・グラジアノ(Rocky Graziano、1919年1月1日[注釈 1] - 1990年5月22日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。本名はトーマス・ロッコ・バルベラ(Thomas Rocco Barbella)。元世界ミドル級チャンピオン。
ロバート・ワイズ監督、ポール・ニューマン主演の映画「傷だらけの栄光」(原題:SOMEBODY UP THERE LIKES ME)のモデルとしても広く知られている。
経歴
[編集]イタリア系。ニューヨークはイーストサイドの貧しい家庭に生まれる。兄弟は自身も含め計10人。父は二流のボクサーであった。幼時は路上のガキ大将、長じては札付きの不良となって数々の事件を起こし、20歳になるまで感化院と刑務所で計8年間を過ごす。その後徴兵で入隊した陸軍では、上官を殴って脱走している。
しかし、不良仲間が電気椅子送りになったこと、そして後に妻となるノーマとの出逢いを機に更生、ボクシングに打ち込むようになる。持ち前の度胸とタフネス、そして強烈な左右、特に右フックを武器とする果敢なインファイトで、まずアマチュアで活躍。プロ入り後も名マネージャー、アービン・コーヘンの巧みなマッチメイクで、当時のホープだったビリー・アーノルドに逆転KO勝ちするなど、順調にキャリアを重ねた(ただし、この中にはマフィアが絡んだ八百長が噂される試合も含まれる)。
1946年9月27日、ニューヨーク・スタジアムで、軍役のため長いブランクを作っていた世界ミドル級王者、トニー・ゼールに挑戦した。9歳若いグラジアノが下馬評有利であったが、初回にグラジアノが、2回には反対に王者ゼールがダウンする乱戦となった。壮絶な打撃戦はグラジアノ優位で進み、ゼールはグロッギーに陥ったが、6回、右ボディアッパーからの左フックでKO負けを喫した。
1947年7月16日に行われた第二戦は序盤からゼール優勢となり、グラジアノは眼をカットする。5回、グラジアノはようやく反撃、6回に得意の右を浴びせてダウンを奪い、立ち上がったゼールをロープに詰め乱打、レフェリーがストップを掛け、遂にグラジアノは世界ミドル級タイトルを手にした。因みに後年製作される映画「傷だらけの栄光」は、ここでハッピーエンドとなっている。
しかし、現実には1948年6月10日、両者の三度目の対戦が行われる。初回、王者グラジアノは挑戦者ゼールの左フックを浴びていきなりダウン。2回以降もゼールが攻め、3回、ゼール得意のコンビネーション、右ボディから切り返しの左フックが顎に炸裂、崩れ落ちたグラジアノは立ち上がることができなかった。ボクシング史に残る両者の死闘は、グラジアノの1勝2敗という結果に終わった。
敗れはしたものの、グラジアノの気力は衰えておらず、王座返り咲きを狙って1952年4月16日、シュガー・レイ・ロビンソンの持つ王座に挑戦したが、全盛期の天才には歯が立たず、3回、ロープ際へ追い詰められての左フックからの右ストレートでKO負けを喫した。
1956年、グラジアノの半生が名匠ロバート・ワイズ監督、ポール・ニューマン主演で『傷だらけの栄光』として映画化された。この映画のお陰もあって、グラジアノは引退後ショー・ビジネスの世界でも活躍した。
通算戦績
[編集]83戦67勝(52KO)10敗6引分け
注釈
[編集]- ^ 情報源によっては異なる日付が書かれている。この日付は墓石に書かれているものであり、グラジアノの妻はこれが正しい日付だと言っている。