リーガル千太・万吉
リーガル千太・万吉 | |
---|---|
左がリーガル万吉、右がリーガル千太(1948年) | |
メンバー |
リーガル千太 リーガル万吉 |
結成年 | 1934年 |
事務所 | 吉本興業 |
活動時期 | 1934年 - 1962年 |
師匠 | 柳家金語楼 |
旧コンビ名 | 柳家千太・万吉 |
芸種 | 漫才 |
受賞歴 | |
1960年 昭和35年度文部省芸術祭 奨励賞 |
リーガル千太・万吉(リーガルせんた・まんきち)は、昭和期に活躍した漫才コンビ。
概要
[編集]2人共に柳家金語楼一座に属する落語家であった(千太のみ金語楼の弟子でなおかつ金語楼とは同い年)。落語時代の二人の音源は、「ご存知古今東西落語紳士録」に残っている。
結成のきっかけには二説ある。
金語楼は吉本興業の芸人であり、上方・吉本のしゃべくり漫才、横山エンタツ・花菱アチャコの成功を間近で見た。それに触発され、試しにこの2人に高座で掛け合いを演じさせて漫才コンビに仕立てたという説。そして、2人の雑談を面白がった日本コロムビアのディレクターが漫才転向を薦めたという説がある[1]。
1934年に正式に漫才コンビ結成、日本コロムビアの廉価レーベルであるリーガルレコードの専属になり、リーガルの屋号を名乗る。戦時中は敵性語の使用禁止で柳家千太・万吉に暫時改名した。
レコードは売れに売れ、別名義で他社から発売した分も含め[2]吹き込んだSP盤は200枚に達し、東京漫才界の最高を記録。戦後はラジオにも活躍の場を広げ、『やきとり』『ぺり住まい』等の演目を十八番とした。サラリーマン同士の会話のような淡々とした掛け合いを基調とする芸風で、共に落語家出身らしい間と口調は今なお高い評価を得ている。
2008年10月29日、東京漫才を顕彰する“東京漫才の殿堂”への殿堂入りが漫才協会によって発表された。
リーガル千太
[編集]リーガル | |
本名 | |
---|---|
生年月日 | 1901年7月2日 |
没年月日 | 1980年5月10日(78歳没) |
師匠 | 柳家金語楼 |
弟子 | 春日三球・照代 |
出囃子 | 1.柳家金洲 (1926年 - 1930年) 2.柳家緑朗 (1930年 - 1934年) 3.リーガル千太 (1934年 - 1969年) |
活動期間 | 落語家として 1926年 - 1934年 芸人として 1934年 - 1969年 |
所属 | 日本芸術協会 |
リーガル 千太(リーガル せんた、1901年7月2日 - 1980年5月10日)東京都出身、本名:富田 寿。立ち位置は右。
13歳で早稲田の本屋に奉公、年季明け直後にトラブルで今度は別の古本屋に勤める、のちに古本屋が繁盛し社員になる。その頃に寄席通いが長じて1926年9月に柳家金語楼に入門、前座名「金洲」。1930年に日本芸術協会設立で師匠と行動を共にし、「緑朗」に改名。なお、この「緑朗」は現在名跡として六代目柳家小さんが預かっている。
万吉の単独引退に伴い、ピンで漫談をしたり、大江笙子と組んで漫才を再開したりした後、1969年頃に芸能界を引退し、落語協会事務員に転向した。晩年は、東宝演芸場のモギリなども行っていたようだが、自分の弟子である春日三球・照代の真打ち披露興行には列席した。
リーガル万吉
[編集]リーガル | |
本名 | |
---|---|
生年月日 | 1894年12月12日 |
没年月日 | 1967年7月30日(72歳没) |
師匠 | 2代目談洲楼燕枝 3代目柳家小さん 柳家金語楼 |
名跡 | 1.柳亭雀枝(? - 1918年) 2.柳家小団治(1918年 - 1925年) 3.桂やまと(1925年) 4.柳家梧楼(1925年 - 1934年) 5.リーガル万吉(1934年 - 1962年) |
活動期間 | 落語家として - 1934年 芸人として 1934年 - 1962年 |
所属 | 漫才研究会 日本芸術協会 |
備考 | |
漫才研究会会長 | |
リーガル 万吉(リーガル まんきち、1894年12月12日 - 1967年7月30日)東京都出身、本名:
- 立ち位置は左。明治の末頃から2代目談洲楼燕枝の門で柳亭雀枝、1918年5月に3代目柳家小さんの門で柳家小団治、1925年5月に桂やまとを経て、同年10月に柳家金語楼の門で柳家梧楼を名乗った。落語家の前座時代は端唄や問答などを得意とした。
- 漫才研究会(社団法人漫才協会の前身)会長を務めたが、病気のため1962年10月6日に日比谷公会堂で引退興行し、ひっそりと余生を送った。
受賞
[編集]映画
[編集]DVD
[編集]弟子
[編集]関連項目
[編集]- 漫才師一覧
- 日本お笑い史
- おぎやはぎ - プロダクション人力舎所属のお笑いコンビ。2002年にM-1グランプリの決勝で漫才を披露した際、審査員の立川談志から「(リーガル)千太・万吉を思わせるような‥」とコメントされた事がある(しかし、直後にメンバーの矢作兼に「ちょっと千太・万吉さんを知らないのですが‥」と困惑されてしまっていた)[4][5]。
脚注
[編集]- ^ 『昭和 高座の名人たち』小島貞二執筆の項
- ^ 内職かどうかは不明
- ^ 春日三球とのコンビ「第一球・三球」を組んでいた事がある
- ^ なお、談志はおぎやはぎに対して、この年に優勝したますだおかだと同じ最高得点である80点という高評価を下していた(最終的におぎやはぎはこの年総合4位に終わる)。
- ^ “"談志節"が全開! 『M-1グランプリ』審査員での立川談志エピソード”. excite.ニュース (2016年12月3日). 2018年3月22日閲覧。
出典
[編集]- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 4-582-12612-X
- お笑いの復権