リング劇場
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(リング劇場火災から転送)
リング劇場 | |
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リング劇場(1881年) | |
情報 | |
種別 | 劇場 |
開館 | 1874年 |
所在地 | オーストリア ウィーン |
位置 | 座標: 北緯48度12分53.6秒 西経16度21分49.4秒 / 北緯48.214889度 西経16.363722度 |
リング劇場(リングげきじょう、ドイツ語: Ringtheater)は、かつてオーストリア・ウィーンに存在した歌劇場。アン・デア・ウィーン劇場と並ぶウィーンのオペレッタの中心地であった。ショッテンリングに面し、証券取引所の向かいにあった。
沿革
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大火災
[編集]1881年12月8日、ホフマン物語が上演されることになっていたが、その上演前に舞台から出火して火災が発生した[1]。警報装置は作動せず、いきなり客席の明かりが消えた。驚いた観客は一斉に出口に殺到した。しかしドアは内側にしか開かないようにできており、殺到した人々によって開くことができなくなってしまった[1]。400人以上の死者を出し、「ウィーンの劇場史上最悪の惨事」と呼ばれた。この事故を受けて、ウィーンの街は一か月のあいだ喪に服し、公式行事なども一切中止された[1]。
市民はエドゥアルト・ターフェ首相を責任者であるとして非難した[2]。普段から帝国の方策に批判的なオーストリア皇太子ルドルフも、この惨事にかこつけて政府を厳しく糾弾した[2]。
火災後の跡地にアパートが建てられ、フロイトが一時期最上階に住んでいた。このアパートは、第二次世界大戦中に破壊された。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 小宮正安『ヨハン・シュトラウス:ワルツ王と落日のウィーン』中央公論新社〈中公新書〉、2000年12月。ISBN 4-12-101567-3。
- 河野純一「ウィーンの都市文化と音楽 : I brauch kan Pflanz, ka schone…」『横浜市立大学論叢. 人文科学系列』第65巻第1号、横浜市立大学学術研究会、2013年、27-70頁、doi:10.15015/00000314、ISSN 0911-7717、CRID 1390009224773196416。
- 江村洋『フランツ・ヨーゼフ:ハプスブルク「最後」の皇帝』河出書房新社〈河出文庫〉、2013年12月。ISBN 978-4-309-41266-5。
- 林承煥「救急搬送の公共性に関する考察 -東京都の救急業務の変遷史を中心に-」『早稲田商學』第440巻、早稲田商学同攻会、2014年6月、217-236頁、hdl:2065/41705、ISSN 0387-3404、CRID 1050001202460189824。
関連項目
[編集]- 志願救急隊、前へ
- アルフォンス・ミュシャ - 背景画を請け負う美術工房に19歳で就職。仕事をしながら絵画を学んでいたが火災により工房は仕事を失い、ミュシャも解雇されウィーンを去ることになる。